能登半島地震の被害状況の全容が相変わらず把握できないらしい。
テレビや新聞で見る映像はまるで戦後の焼け野原の写真と同じである。ここまで地震は人々の生活を破壊してしまうものなのか。
実家に正月帰省して、妻と子供3人を失った人がいる。何と言っていいのか言葉もない。
まだ1月である。冬の寒さの本番はこれからだというのに、被災者の人たちが安心して暮らせるような状況にはなっていないようだ。
何年も前から能登地方は大きな地震の発生が予想されていた地域であるが、備蓄も含めあまり準備はしてこなかったらしい。間に合わなかったのかも知れないが、地形からして大きな地震が起こればどういうことになるかは十分予想できたはずである。なにより急がねばならなかったことがされていない。
来るかもしれないという災害に対応することはどうもうまくいかない。日本人はこれほど自然災害に苦しめられているのに、どこかのんきなところがある。
東京には大地震は来ないものとして開発しているように見える。しかしスカイツリーが映る東京の景色を見ていると空恐ろしくなる。こんなに広い地域に大地震が起きたらどういうことになるのだろうか。
「次の震度7はどこか」、「次に危ないのはあの地域である」など、雑誌やネットでは警告なのか煽りなのか分からない記事が連日掲載されている。
そろそろ関東に来てもおかしくはない。きのうニュースで東京の江戸川区の住宅街が取り上げられていた。道路が狭く、災害発生時に消防車が入れない。今判ったことではない。何度も教訓はあったと思うがずっとそのままである。このままにしておくしかないようである。
東北大震災が起きたとき貞観地震のことが取り上げられていた。869年に同じ東北地方で起きた大地震である。東北大震災が千年に一度の大地震であることの説明に引用されたようである。
方丈記の無常観は、鴨長明が災害の多発を経験したことから書き著したものとされているので、貞観地震がそのきっかけかと思っていた。貞観時代は859年から877年の18年間である。調べてみるとこの期間に富士山が噴火し、阿蘇山は2回噴火し、貞観地震が起こり、鳥海山、開聞岳が噴火したことになっている。すごいことである。
しかし長明は1155年の生まれとなっていた。貞観地震から280年も経っている。貞観時代の災害が方丈記に影響したとは思えない。
あらためて鴨長明の生きた時代を調べてみると、わずか10年足らずの間に長明の住む京都には大火災、竜巻、大飢饉、大地震が起きている。
大地震は長命が30歳の1185年である。文治京都地震というらしい。山は崩れて海は傾き、土は裂けて岩は谷底に転げ落ちた。余震は3か月にもわたって続いたという。
日本史年表を見るとどの時代も災害だらけである。
日本人は災害を教訓にしなかったのだろうかと思うが、とても教訓にできるような生易しい災害ではないということかもしれない。人知の及ぶものではないということであろう。
日本人が災害から学んだことは「どうしようもない」ということだけのようである。何ごとも過ぎ去ることを待つのみの民族になったのかもしれない。
しかし無常観とは寂しい人生観である。こんな人生観をもって生きていってはいけないと思うが、人生無常と思わなければ生きていけないこともある。(了)
災害から学ぶもの
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