一昨日の夕刊に東出昌大という俳優さんのことが掲載されていた。その記事を読んで少し同情してしまった。
東出昌大という俳優さんを初めて映画で見たのは、あの関東大震災のときの虐殺を描いた「福田村事件」である。
この俳優さんが不倫をしてスキャンダル報道でバッシングを受け、芸能界から干されているという話は知っている。その俳優さんが出演していたので意外に思ったものである。しかしいい俳優さんだと思った。背は高いしハンサムである。
彼は今、関東近郊の山あいで狩猟の日々を送っているという。それも趣味ということではないようだ。離婚して家がなくなり部屋を探したが、不動産屋に断られたらしい。それも3軒である。
東出昌大というのは本名であるらしく、「マスコミの取材が来るから」というのが断りの理由であった。それ以来東京で暮らすのは厳しいな、ということから山暮らしになったようである。
確か朝ドラにも出演していたのではないか。ひところは若手俳優ナンバーワンのような人気であったと思う。その人が「生きられる場所が、ここしかなかったんです」と言う。孤独な生活を強いられている。
不倫がバレてすべて失ってしまった。しかし短絡になるが不倫がバレても何も失わない人もいる。芸の肥やしだという人もいる。
暴力事件を起こし、警察沙汰になってもテレビを闊歩している人もいる。どこが違うのだろうか。
結婚していれば不倫となり、結婚していなければ単なる痴話になる。
結婚していれば相手に対する裏切りとなり、結婚していなければ、やはり裏切りとなるが、社会的にはさほどバッシングの対象になるということはない。
法律婚か事実婚かで社会の取り扱いが異なるが、男女のことが法律で変わるような社会とも思えない。東出昌大という俳優の場合、何がここまで彼を追い詰めているのだろうか。
不倫のどこがいけないのか、などということは女房などの前では絶対言ってはいけないことである。普通の家庭の主婦においては不倫は許せるものではないことになっている。
普通の家庭の主婦ではない人には、夫の不倫はさほど気にならないものであるらしい。自分も不倫をするからである。私の知り合いにそういう夫婦がいる。険悪な夫婦ということでもない。居心地がよさそうである。
男女のつながりは愛情だけではない。若いうちは愛情とその裏返しである憎しみから人生を考えてしまうが、少し年を取るとお金や夫婦という仕組みのありがたさや便利さというものに気づくものである。
その時になって考えればいいのだが、若いうちは何事も急いでしまう。モラルというものは人生の立ち位置によって変わるものであり、モラルなど不要だという人生もある。
東出昌大さんが不倫の発覚前に結婚について語ったインタビューの記事というのがあるという。その内容が少し掲載されていた。「結婚とは互いが一体化するほどの絆である」というようなことを語っている。
今回彼を取材した新聞記者は、ここで語られた結婚観を持つ人がなぜ不倫に走ったか、ということを確かめたかったらしい。
記者がそのことについて尋ねると東出さんは黙りこくり、それから、うなったと言う。毎日新聞の記事をそのまま掲載することにする。
「ウソをついたわけじゃない。その時は本心からそう思っていた。僕は僕自身を分かっていたつもりだったけど、全然分かっていなかった。そういうことなんでしょうね」
不倫の代償とは孤独のことではない。そういうことなんである。(了)
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