「泥棒にも三分の理」とは、「泥棒が盗みを働くにもそれなりの理屈がある」という意味と、「どんなことでも理屈がこじつけられる」という意味のことわざです、とことわざ辞典にある。
しかしこの二つの意味は違うことを言っているように思う。
三分であってもちゃんとした理屈がある、ということと、どんなことでも理屈をつけられる、というのは別である。
泥棒と言っては語弊があるが、政治というものはみんな「三分の理」ではないか。もちろん「どんなことでも理屈がこじつけられる」という意味の 「三分の理」である。
旧統一教会問題、裏金問題。せめて政治家は、こじつけではない「三分の理」は説明するべきではないか。それをしないということは、「三分の理」も持っていないということになる。
自民党の公認・重複候補問題。当事者の議員は「厳粛に受け止める」という人が多いが相変らず説明しない。中には立候補を取りやめるという人も出てきた。
何を考えて議員になったのか。裏金問題などでいろいろ取り沙汰された議員に世襲が多いことに驚く。
三分の理もない人達が日本の政治に関与している。泥棒にも劣ると、言っては言い過ぎだが、言いたくなるような状況を政治 家たちが作っている。
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