母 を 想 う

つぶやき

 母はおでこであった。それをとても気にしていた。娘の頃日本髪を結うことがつらかったらしい。前髪がアップになるからである。

 母の実家に行くとみな同じような額をしている。母は前髪で額を隠すようなしぐさをいつもしていた。

 父が死んで、私たち母子4人は、叔母夫婦の家に世話になり東京での生活を始めた。私が3才、兄が5才、姉は9歳くらいのときである。

 母は着物の仕立てで親子4人の生計をたてた。
 銭湯の脱衣所に、「着物仕立ていたします」というような張り紙を出して注文を得ていたらしい。

 子供心にも、押入れがいつも依頼された着物の反物で山積みになっているのを覚えている。

 着物の仕立てはかなり重労働らしい。一日座ったままの仕事である。母は、「畳の上の土方」、という言い方をよくしていた。

 母の仕事が忙しく、小学校の運動会に母が来たことはほとんどない。
 来たとしても、私や兄の徒競走のときに、時間をみはからって私たちの姿を見るだけだった。

 あの頃の運動会の昼食は親と子が一緒にとることになっていた。
 同級生の母親たちは親同士のつながりもあることから、昼食時の観覧席には子供を交えた大きな輪がいくつもできていた。

 私は兄と二人で母の握ったおむすびを食べていた。母と一緒に弁当が食べられたらいいだろうな、といつも思っていたような気がする。

 小学校に入学して母を何度か学校で見かけたことがある。
 私はいつも休み時間は校舎の北側の校庭で遊んでいたらしく、その校庭に降りるドアー越しに母を見たのである。

 間違いなく母であったが、私に話しかけることもなくただ私の姿を見ているだけだった。後に私も人の親になり、この時の母の気持ちが分かるような気がした。

 叔母が高田馬場に引っ越してから母は着物の仕立てはやめて、近所にある漬物工場で働くようになった。母にとって人生初めての会社勤めである。

 工場といっても作業場はただ屋根があるというだけのところで、夏はいいとしても冬は寒さがつらかったらしい。

 漬物屋である。水が絶え間なくに流れている職場である。
 母はこの職場で何人もの友達を得た。多分母にとって仕事を通しての友達は、やはりこれも人生初めてのことだったのではないだろうか。

 叔母の家を離れ、親子4人のアパート暮らしを始めたとき、母の勤めていた漬物屋が工場を所沢に移転することになった。

 母はそこをやめ、その後パチンコ屋のまかない婦や、タクシー会社の掃除人などの仕事をした。

 一日働きづくめで、家に帰ってからは子供たちの食事、洗濯、内職。本当に働き者であった。

 母と一緒に食事をしたことがない。朝食も夕食もである。アパートの共同洗濯場には洗濯機など置く場もなく、冬、冷たい水に顔をしかめる母の顔を思い出す。

 大学生になってアルバイトで得たお金で、母と兄と3人で2泊3日の京都旅行をした。母を楽しませたい、という気持であった。しかし母は旅行には行ったが、京都の寺院などには一切足を入れなかった。

 母は創価学会の信者であったため、京都は「邪宗の都」と理解していた。
 宗教団体としては穏やかではないが、創価学会は他宗を敵視し、信者にこのような意識を植えつけていた。

 旅館で親子三人の食事は楽しかったが、とうとう最後まで母は京都を楽しむことはなかった。楽しむどころか本当に嫌だったようだ。

 兄は26才のとき、私たちが住むアパートの前の道路でひき逃げ事故に遭った。

 救急車で女子医大病院に運ばれたが、救急車の音に不安を持った母は、担架に乗せられた兄の姿を見たという。

 どうしてこんな目に合わなければいけないのか。夫の死後、幼い3人の子供を育てさんざん苦労をしてきたのに、まだ苦労が足りないというのか。
 母は病院で自分に語り掛けるように、静かな声で私に話をしたことがあった。

 私は50歳の時に、マンション生活を脱し、自分の家を建てた。姉のところで生活していた母を引き取るつもりであった。

 そのとき母は80歳の半ばになっていた。認知症を発症していた。
 でもあれほど居候のつらさを語り、子供たちが家を建てることを望んだ母である。きっと母は喜んでくれるだろうと思っていた。

 しかし母は分からなかった。一緒に生活を始めたが、「こんなところにいつまでもいられない、早く帰って子供たちの食事を作らなければいけない」と、どこに帰る気なのか分からないが、無性に帰りたがった。

 私の名を呼びながら、私が目の前にいることが分からなくなっていた。私の親孝行は間に合わなかった。

 母が私の名を呼びながら「どうしたらいいんだよう」と泣いたことがあった。
 どんなに苦しくても子供に頼らず、兄の事故のときでも泣き顔も見せたことはない母である。

 兄夫婦が母との同居をやめ、家を出ていった時のことである。かぼそい、弱々しい声で私に訴えるわけでもなく、ただ「どうしたらいいんだよう」と小さい体を縮めるようにして涙を浮かべていた。

 母は生前「私が死んだら私の気持ちが分かる」ということをよく口にした。
 特別な思いをもって生きてきたことは間違いない。母の人生はただ子供のことだけだった。
 最近私の名を呼ぶ、あの時の母のかぼそい声が鮮明に聞こえてくるのである。

コメント

タイトルとURLをコピーしました