死について考えるのも必要だ

つぶやき

 「人はそう簡単に死ねるものではない」「人の命はあっけないものである」
 人の死というものはそういうことである

 毎晩酒が入ると「いい人生だった」と妻に言う。「バカな人生を送ってしまった」と言うときもある。
 そして「あの人も、「彼も」「あの旦那さんも」「ヤツも」死んでしまったなあ、と言うのが口癖になっているようだ。

 自分で言ったことを覚えていないほど酒の量は多くないから、意識あっての言葉である。
 妻は「お酒が入るとすぐに人が死んだ話をする」といつも嫌な顔をする。

 それは分かっているのだが、酒が入るとそんな言葉が口から出る。なにか発散しているのか、なにかのバランスをとっているのか、と思うが、そんなことでもなく、酔っ払いのでまかせである。

 死について考える必要はあるのだろうか。楽しいテーマではないから読む人にも書く者にも愉快なことではない。しかしそんなに遠い話でもないから、一度くらいは考えた方がいいのかもしれない。

 「死とは何か、死ぬと人はどこへ行くのか、なぜ人は死ぬのか、死は誰も避けることができない」
 こんなことが死について考える事柄らしい。

 ネットで「死について考える」と検索するとパーキンソン病やうつ病のことが掲載されていた。仏教やキリスト教の死生観なるものも掲載されている。

 今さら浄土とやらがあるとは思ってはいないし、人は来世で生まれ変わる、などと言う話を信じるような時代ではない。

 三途の川はあるらしいという話は聞いたことがあるが、最近、あるのではないかと思うようになった。

 生きているときに死について考えるのであるから、死とはつらいものなのか、苦しいものなのか、痛いものなのか、という身に迫ったことにしか関心がいかない。

 眠るように死んでいきました、という死に方もあれば、苦しみながらの死、激痛の中での死もある。死に方は選べないが、できたら穏やかなものであってほしい。

 「本人は口には出しませんでしたが、ずいぶん苦しい思いをなさったと思います」と死者を前に医者が遺族に言う。
 それを聞かされた遺族はどう思えばいいのか。
 「お父さんよく頑張ったね」「お父さん苦しかったろうね」

 遺族にとっては眠るように死んでいったお父さんより、頑張った、苦しかったお父さんの方が思い出に残るのだろうか。

 病気というものは本人の苦しみもあるが、世話する人の負担も大きい。
 最近友人や知人の認知症らしき噂が入る。

 母の認知症は70代の初めころ物忘れから始まった。それから物が盗まれたというようになり、80代になってからは何もかも分からなくなっていた。認知症も進行するものである。

 いろいろ考えると認知症は大変な病気であることに気がつく。介護ということから見れば、がんより認知症の方が大変かもしれない。
 団塊の世代。認知症になったら入れる施設はあるのだろうか。(了)

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