兄が26歳の時ひき逃げ事故に遭い、頭部に人口骨を入れることになった。
頭に人口骨など入れたら、それこそ極端に言えば一生障害を持った体になってしまうのではないか。そんな心配を主治医に言ったことがある。
医師は「社会生活ができるようになれば人工骨が入っていようと何が入っていようと完治したということです」と私に答えてくれた。
怪我でも病でも回復状態がどうであれ、社会生活ができるようになれば完治したことになる。認知症という病の怖さを知ることでもある。
「死は生きている途中にやって来る」、という言葉が目に留まった。死は生の後に来るものではなく生の途中にある。
別にあらためて気づいたということではないが、「人間いつかは死ぬものだ」という言葉より死の現実味を感じるものがある
誰でもそうだと思うが若い頃は死について考えたことがなかった。70歳を過ぎても、元気に仕事をこなしているときは死について考えたりしなかった。
病気になり、仕事をやめてから死について少し考えるようになったが、しかし深く考えているわけではない。深く考えようがない。
死んでもいないのに死について考えることなどできるはずがないから、どんな高僧でも死について語ることはできないはずである。
生きているときに考える死は「生きていること」になってしまう。
復活とか来世というのはそういうことであり、ミイラもそうである。世界の宗教は死後の世界というものについて同じようなことを考えてきた。
死んでしまったら納得ということはない。死ぬことを生きているうちに納得するのであるから「死んでもあの世で生きている」というのが一番納得しやすい。
「そうか、死んでも生きているのか」。これほど人間を救う言葉はない。
今年も早や残り1か月。今年は有名人の訃報が多かった気がする。
10月に病気療養のため執筆活動をしばらく休むとコメントしていた作家が胆管がんで亡くなった。73歳であった。
よほど病状は進んでいたのだろうか。この作家が有名な人なのかは知らないが、2人の奥さんは有名な美人女優さんだったからなんとなく知っている人である。
わずかな年齢差でも、私より若い人の死は気になる。
44歳で亡くなった父は死の床でおはぎを一口食べて、「うめえなあ」とつぶやき、「死にたくねえなあ」と言って死んでいったそうである。
顔も知らない、声も聞いたこともない父親に思い出があるはずはなく、母の言葉の中にしか父はいなかった。
母が私たち子どもに伝えた父の言葉はこれだけである。「死にたくねえなあ」という言葉も、どういう思いを込めた言葉なのかは分からない。私にとって父親とはこの2つの言葉であった。
幼い子供3人を残して死んでいく父の思いはどんなものだったのだろうか。今まで考えたこともなかったし、父の思いに心を寄せたこともなかった。
酒飲みで博打好きだったという父親にいい思いは持てなかったが、父も普通の人。死を前にして万感の思いがあったことだろう。
44歳にして「死にたくねえなあ」という言葉を口にする人生。私には経験できないことだが、辛かっただろうなと思う。(了)
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