確 信 犯

つぶやき

 人はよく、彼は確信犯だ、という言葉を使うが、悪いと知りつつ悪いことをやった、という意味で言うなら、それは確信犯ではなく故意犯である。

 確信犯とは、自分の行為は絶対に正しい、と確信してする行為である。その典型は革命行為とされる。正しい社会を作るための革命行為を、悪いと知りつつやった行為として罰することができるのか、という刑法の本質に対する問いかけが確信犯という言葉なのである。

 桶川事件のようなストーカーによる殺人事件、オーム真理教の事件などを考えると、犯罪を未然に防ぐ視点の必要性を痛感する。

 刑法が因果応報を基本とすることに異を唱える気はないが、社会防衛という視点も必要だろうと思うのである。
 犯罪を未然に防ぐということを検察や警察はよく言うが、どうもその態勢も実行も伴っていないように見受けられるのである。

 刑法の本質を因果応報とするか社会防衛とするか、昔から論議されてきたことである。社会防衛とする考え方はある面では正しいものを持っているが、その具体的運用が難しい。

 犯罪を犯す前に、社会のためによくない人間だと判断されれば逮捕されてしまう。簡単に言えば社会防衛の刑法とはそういうものである。
 誰が判断するのか。あのヒトラーのナチズムになってしまうかもしれないからである。

 しかし全体主義や権威主義の弊害を持ち出すまでもなく、安全な社会のため何か工夫することができないのであろうか。

 どう考えたって、殺されてから警察に来てください、というのはあってはならない話である。警察はいつまでこんなことをやっているのだろうか。

 警察批判になりそうな雲行きである。好きな人もいるだろうが私は警察が嫌いである。
 人を捕まえることができるという権力を持ち、人を殺せる拳銃を持っているような人を信用することができないのである。
 そのような権力を持った人がどんな人格になるのか、考えただけでも恐ろしい。

 警察学校はそれに歯止めをかけるための教育機関であると私は思っているが、警察官の地位を利用した殺人事件や強姦事件など許しがたい犯罪が跡を絶たない。

 警察の長官や総監はよく警察の威信にかけてという言葉を使う。しかし警察に威信などは不要である。冤罪は警察の威信が惹き起こしてきたではないか。
 警察の威信にかけて捜査しても解決しない事件がたくさんある。

 毎年12月になるとテレビなどで放送される世田谷一家4人殺人事件。八王子のスーパー射殺事件も、夏には捜査担当者がチラシを配る姿が放送される。
 いずれも関東地方の事件であるから、東京のテレビ局は放送するのかもしれない。

 この2つの事件に限ったことではないが、未解決事件は防犯カメラが普及していないときに起きている。警察の威信は防犯カメラによるところが多いのである。

 防犯カメラの導入時にマスコミは監視カメラと批判した。それに対して警察は犯罪の予防に役立てるためで捜査には利用しない、監視ではない、と言っていた。

 しかしそんなことを忘れたか、最初からそういうつもりだったのか、監視カメラが町中に張りめぐらされ、警察は何より真っ先に監視カメラを手に入れ捜査に入るのが常套である。

 同じようなことがあった。公立校における君が代斉唱である。
 国は君が代斉唱は義務ではないとしたが、各地の教育員会は起立して歌わなかった教師を懲戒にしている。
 愛国心は大切だと思うが、国民は愛国心に懲りた歴史を持っている。その心情を考慮することが為政者には必要なのだが、これも忘れてしまったようだ。

 権力は国民を監視しないと不安なのである。
 中国14億人の民は監視カメラで識別が可能という。すごい話である。

 マイナンバーカード。これも監視である。国に都合のいい話はまず国民のためという甘い言葉をもって現れる。
 ポイントがもらえる。健康保険証の代わりになる。なんかとても便利そうだ。国民はなんだかんだ言ってもこういうことに弱い。

 防犯カメラは屋外に設置するものであるが、マイナカードは家の中に設置された監視カメラなのである。(了)

 

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