女房は毎年恒例の、学生時代の仲良し5人組との会食に有楽町まで出かけた。
仲良し5人組のうちの2人はすでに夫を亡くしている。他の2人の夫は癌を発病し、1人は心臓疾患である。
ずいぶん長く続いている集まりだが、いつの間にかみんなおばあさんになった。
夫 が定年になって家にいつもいるようになり、そのことが妻のストレスとか何とかに影響して夫婦関係がうまくいかないとか妻が病気になった、という話をよく聞く。
夫が定年年齢ということは、すでに子育ても終わり、妻にすればやっと解放された時間を迎えたという時に、薄汚れたような亭主を毎日、一日中見ることが愉快なはずはない。
我々夫婦の場合、仕事場と住まいが一緒であったことから、私が仕事をやめて家にいることに、妻はそんなに違和感なり、嫌悪感は持っていないと思う。認識不足かもしれないが。
お昼に私の好物のちらし寿司が用意してあった。おひつからそのまま箸でつまみながら酒を飲み、久しぶりにフォークや懐メロのCDを聞いた。
はしだのりひこという人には、風とか花嫁といった曲を思い出す。この人は本当に音楽が好きだったんだなあと思う。
伊勢正三という人、なかなかの音楽センスを持った人だと思う。あの時代、いろいろな才能が活躍していたことをあらためて知ることになった。
作曲という行為には当然のことながら作曲者の音楽性が出る。
音楽性にはいいものとよくないものがある。どんなに名曲を書いた人でも聞くに堪えないメロデイを作ってしまうことがある。あのベートーベンにしてもそうである。
作曲家には作ってはいけないメロディがある。作ってはいけないメロディを盛んにつくる人が、さだまさしさんである。私はこの人を音楽家として認めていない。
あの筒美京平さんですら作ってはいけないメロディを作ってしまった。ジュディ・オングが歌った名曲と言われる「魅せられて」などがそうである。
折鶴という曲がもう何年も前から気になっている。千葉紘子さんが歌い、作詞は安井かずみさん、作曲は浜圭介さんである。
いつ頃の歌なのだろうかと思ったら昭和47年である。私が25歳。ずいぶん昔からあった歌なのである。
歌謡曲を聴いても詞に感心することは滅多にない。というより詞はほとんど聴いていない。しかしこの曲はどうも詞が気になるのである。詞とメロディの両方ががいいと感心して聴いた歌謡曲は、この曲だけだった気がする。
安井かずみさんという人を全く知らないので、ウィキペディアで調べてみると私より8歳年上であるが30年も前に肺がんで亡くなられている。
人柄については読んで分かるものでもない。作家であるから残された作品によって想像するのが一番正確である。
折鶴の歌詞には並外れた思い付きがあるように思う。曲も歌詞の内容に素直につけたという感じでとてもいい。
浜圭介さんには舟歌とか終着駅といった名曲があるが、舟歌には模倣を感じ、終着駅には作為を感じる。この曲はたぶんメロデイが先にあって、後から詞をつけたものではないかと思う。
それに比べて折鶴はとても自然なメロディなのである。シンコペーションに歌詞を乗せた部分はなかなかのものと思う。
寝てしまったらしく、アンプのメーターランプが光っていた。外は夕暮れになっていた。なんとなく明かりをつける気にならず、うす暗い中の一杯もおつなものかと、またチラシ寿司をつまみながら水割りをやり始めた。(了)
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