私は40歳の半ばころ、脱サラとして始めた不動産業を、バブル崩壊によって廃業せざるを得なくなった。
何か他に仕事を探さなければならなくなったが、転業と同時に食べていけるような仕事があるはずもなく、仕方なく国家試験を受けることにした。
しかしこの試験は1年足らずの準備で合格できるような試験ではなく、また私はこの試験を深遠な法律学の試験と誤解したことから、要らぬ遠回りをしてしまった。
法哲学書や法解釈学まで読み込んだのであるが、この試験においてはまったく無駄なことであった。
このままでは合格はできないことを知って、受験専門校の答案練習会に参加して初めて受験勉強のなんたるかを知った。
合格率2パーセントの枠に自分を押し込むには、ひたすら暗記と合格思考の模倣しかないのである。自分の考えたことなど邪魔になるだけで、なんの役にも立たない試験であった。
私はバイオリンを少々弾くが、なんとかメソッドとかいう系統だった訓練を子供の頃から受けたわけではない。
生涯の趣味としてバイオリンを弾いていたいと思うが、どうしても超えられない壁があった。
歳をとってから楽器を習う人が多いというが、果たしてどんなものなのであろうか。
要は自分がどの程度で満足するかということである。
名演奏家のレコードなどで音楽を覚えた人はやめた方がいい。音楽を知っている人は、音楽は素人がやるものではないことに気づくはずである。
バイオリンは、長い間受け継がれてきたバイオリン奏法なるものを身につけないと音にならない。
弓で弦をこすればとりあえず音は出るが、それはバイオリン音楽の音ではない。自己流では明治時代の演歌のバイオリンになってしまうのである。
バイオリンは手にしたが模倣する機会、言い換えれば人に習う機会を持つことができなかった。後悔しないはずはないが、習うということの大切さを知るには歳をとりすぎてしまった。
生活の糧を得るための受験は模倣しなければ合格できず、人生の唯一の楽しみも、模倣の機会を持てなかったために得ることができなかったのであれば、何よりも人生において大事なのは模倣ということになる。
では人生における独創とは何なのであろうか。いろいろ思いつくことはあるが、どうも独創は分が悪い。若い頃は、独創なくして何が人生かと、考えていたが、歳をとってみると自分の独創など何の意味もないことを思い知った。
自分の中は正直空っぽである。もっと真似をする人生を送るべきだったと思う。真似をする以外物事を吸収するすべがないことをこの歳になって知った。
自分の孫たちに、サッカー、ピアノ、バレー、勉強、なんでもいいから一生懸命真似をしなさい、と言っておきたい。
いまでも「自分探しの旅」を行う人はいるのであろうか。旅までして自分を探すのであるから何か見つかることを祈るが、見つかるとも思えない。(了)
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