最後は人間性

つぶやき

 味覚障害になってしまった。朝食まではいつもの通りであったが、食後のコーヒーのためにビスケットを一つ口に入れたら味がない。
アレーと思って今度はいつも食べている煎餅をひとかけ口にしたが、あの醤油の味が全くしない。この4,5日の発熱はやはりコロナであったようだ。

 少し乱暴な話であるが、子供が離婚したり、結婚もせず家にいるのは親の責任が大きいと思う。
親が結婚とか人生というものについて模範を示せないから、子供たちは離婚し、結婚もせずに40や50にもなってしまうのである。

 知人の娘さんが誰もがうらやむ結婚をしたが、1年足らずで別れてしまった。この娘さんの父親が全くの趣味人で、子供たちのことについては無関心であった。
 母親は自分のことしか考えない、世間づきあいも利己的に徹した人である。
傍から見ていて子供たちの結婚はうまくいかないだろうと思っていた。

 近所には結婚していない娘さんが何人もいる。こちらも皆さん50歳過ぎでいる。
親の、特に母親の責任だと思う。母親が無知である。人とまともにつき合うことができない人である。こんな母親に育てられては子供は結婚できるはずはない。

 近所の息子で50歳を過ぎた男がいる。頭はハゲ、手からタバコを離したことがない。煙を吐きながら毎日我が家の前を通る。なにをしているのか。どこで働いているのか、全く分からない。この親というのがどうしようもないワルであった。近所の鼻つまみ者であるが、危険な人間でもあるのでみな近寄らない。

 親には「佇まい」というものが必要なのである。他の言葉を探したがこの言葉がいい。佇まいとは思いやり、気遣い、愛情という人間性のことに他ならない。
 しかしただ単に人間性という他人との関りにおいて伝えるものではなく、佇まいとは、子供が無意識の内に親の人間性の素晴らしさを感じとることである。教えることと感じ取ることとは全く異なる。これはとても大切なことある。

 親は一通りのことを子に与えるが、子供が感じる佇まいを持つ親は少ない。佇まいというものは手に入れる物ではない。その人間の生まれつきの品性のことである。
言い過ぎだと思っているが、離婚した娘さんや結婚しない娘さんの親たちは、その原因を作っていると思う。そんな無茶な、という反論が出ることはよく分かるが、やはり子供の離婚などは親の責任である。

人に感謝することができない。人を避けることばかりで人と交流することができない。こんな親ばかりである。こういう親に育てられれば離婚もするし、結婚も遠ざかる。
70歳も過ぎたような親が大人になっていないのである。子供を突き放すでもなく、出戻ってきた娘と一緒に暮らすことに満足してしまっている。これでは親ではない。

 通りすがりの年配女性が我が家の庭に咲く花を見て、「私庭が好きでいろいろやってみたがうまくいかなかった」と家内に話をしていた。花を咲かせる佇まいを持っていない人なのである。人生の最後までこのことに気がつかないことと思われる。

 私が佇まいを持っているということではない。うまく子供を育てた人は皆佇まいを持っている。
 人は、最後は人間性で選ばれる」ということを結論にした本があった。
人は最後は佇まいである。(
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