映画「福田村事件」を観る

つぶやき

 関東大震災は首都直下地震と思っていたが、相模湾北部の海底が震源地であった。
 三浦半島の突端の城ケ島と、伊豆半島の付け根にある真鶴を結んだ海域が震源地ということになる。
 最大震度7。マグニチュードは7.9で、阪神淡路大震災を上回る。

 神奈川、静岡、東京の被害は甚大であったが、千葉でも震源に近い房総半島南部での被害は大きいものであったらしい。埼玉でも震度6の揺れを記録している。
 当時12歳くらいであった母は茨城の実家でこの大震災を経験したが、「家の中で立っていられないほどの揺れだった」、ということをよく私たちに話していた。

 犠牲者は10万5千人に及ぶと言われている。東京の陸軍被服廠跡の空き地では4万人近い人が焼け死んでいる。
 犠牲者の大半は火災による焼死である。耐震耐火の時代の建物ではない。阪神淡路大震災の長田地区の惨状が各地で起きていたことになる。

 この関東大震災による混乱の中で、多数の朝鮮人や、朝鮮人に間違われた人が殺されたという話がある。特定の場所のことではなく、関東一円にこの話が語り継がれている。

 「朝鮮人や社会主義者、不逞の輩が略奪や放火をしている。朝鮮人が集団で襲ってくる。朝鮮人が井戸に毒を入れた」、といううわさが生じ、それが瞬く間に関東各地に広がった。母も朝鮮人が井戸に毒を入れたという話を信じていた。

 通信手段が限られた時代に、どうして同じうわさが速い時間で広範囲に広まったのか。噂ではなく、政府や官憲が意図して広めたとみる方が自然であり、事実警察などは、朝鮮人の襲撃に警戒しろという指示を、各地の自警団に出していた。

 映画館で映画を観るのは何拾年ぶりなのか全く思い出せない。
 映画「福田村事件」は、現在の千葉県野田市において、香川県から来た行商人15人のうち9名が、官憲や村民の自警団によって殺害された事件を描いたものである。

 殺した理由は行商人が朝鮮人だったからということであるが、事実は日本人であった。間違えて日本人を殺してしまった事件である。

 当然のごとく映画は、なぜ日本人を朝鮮人と誤認し、集団をもって殺すことになったのかをテーマとして描くことになる。

 私はこの映画の監督である森達也という人を全く知らない。
 最初から結論を言うことになるが、もっと別の撮り方があったのではないか、というのがこの映画を観た私の率直な感想である。

 上映時間は2時間を超えるが、前半1時間もかけてのプロローグがなんとも面白くない。監督は何を考えて前半を撮ったのかと考えたが、あの前半を撮ったのだから、撮りたくて撮ったのだろう

 主題のための「価値ある退屈」になっていない、と私は思うが、異常な虐殺行為に意味のあるプロローグなど存在しない、ということを監督は言いたかったのかもしれない。

 人々はそれぞれに問題を抱えているが、ごく普通の日常を暮らしていることを描かなければ虐殺行為の異常さが出てこない。その意味では、前半を否定しては監督に気の毒なことになる。

 難しい映画である。内容が難しいということではない。この虐殺事件を映画にすることは難しいことである。

 映画でしか描けないことがあるが、映画では描けないことがある。映画は現実らしきものを伝えるが、現実を限定し、観る者の思いを否定するからである。

 お茶の水博士が演じた役は、警察官なのか何なのかよく分からないが、一生懸命演じていた割にはうまい演技とは言えない。

 登場人物の役割が良く分からない。「集団の狂気」ということがこの映画のテーマらしいが、判るようでいまいち判らない。

 映像において最も重要なことは、村の人々が行商人を殺害するときの表情、行動である。武器を持たない無抵抗な人間を殺すのである。
 村民の狂気として殺人を描くか、それとも他の何かか。

 映像からは村人の狂気は伝わってこない。みんな慌ててはいるが冷静に殺している。

 若い女が行商人の棟梁ともいうべき男の頭をナタで惨殺するシーンがあったが、あれが虐殺の始まりであった。あの女の笑いを含んだ無表情な顔は何を意味しているのだろうか。

 私は観終わって、あの殺害は何だったのだろうかと考えた。ひとつ思い当たったことがある。村民が朝鮮人(実際は日本人であるが)を殺すことは、ゴキブリを殺すことと同じことだということである。

 ゴキブリを見たら逃がすということはない。殺すことになっている。
 なぜ殺すのか。気持ちが悪いからである。
 ゴキブリとカブトムシは同じ昆虫だと思うが、ゴキブリは昆虫ではない。みたらスリッパでもなんでも叩き殺すことになっている。

 人間を殺すには罪の意識があるが、ゴキブリを殺すのにそれはいらない。それが監督の意図であったのだろうか。

 映画から帰って夕刊の大きな記事に目が留まった。
 朝鮮人虐殺は「震災の混乱」が生んだものではない、という記事である。

 千葉県八千代市は千葉県北西部に位置し、震災によって大きな被害は出なかったところである。しかしこの地で10数人の朝鮮人が住民によって虐殺されている。

 この犠牲になった朝鮮人は、震災後この地にある軍の習志野収容所に「保護」を名目に東京や千葉県内から移送されてきた人たちである。
 朝鮮人3,000人以上、中国人600人が収容されていたという。

 これらの収容者は各地の複数の集落に引き渡され、その住民たちの手によって仕事のように虐殺された。

 八千代市にも「朝鮮人を取りに来い」と軍から連絡があり、15人の朝鮮人が割り当てられ、村民たちは当然のように虐殺した。

 朝鮮人虐殺は社会主義者の虐殺も含めて、そのほとんどが軍の仕業であり、「朝鮮人の払い下げ」は軍の虐殺をカムフラージュするためのものではないか、という指摘がある。私もそう思う。

 野田市は八千代市よりさらに北にある。映画に大震災発生時の映像はあったが、大きな被害が生じたようには描かれていない。

 火災やつぶれた家の場面はあっても、登場人物たちの家々は震災前のままであるし、タンスや家財が倒れたような様子もない。
 映画を観ていて不思議に思ったが、それが事実なのかもしれない。そうであればこの地でも「震災による混乱」に関係なく、人々が殺されたことになる。

 福田村事件では刑事事件として何人か逮捕され、懲役刑を課せられているが、いずれも恩赦によって釈放されている。
朝鮮人を虐殺した村民たちが刑事責任を問われた記録はないようである。

 松野官房長官は朝鮮人虐殺に関する記録はない、と言明している。小池都知事もノーコメントである。

 彼らの立場で日本人は悪いことをしたとは言えない。権力は歴史の修正から歴史の否定を目指そうとしている。

 「負の遺産を受け継ぐことがなんになる。日本人の悪行を並べ立てて、お前はそれでも日本人か」という言い方が力を持ちつつある。戦前にも同じようなことがあったようだ。
 これに対して反論する言葉を私は持っていない。(了)

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