映画と内心の自由

つぶやき

 高校生のころ映画をよく観た。学校が繁華街を抜けたところにあり、映画の看板を見ながら登校したものである。

 ある日「裏窓」という映画の看板が目に留まった。
 裏窓と言えば当時名のあるエロ本と同じ題名である。隠れるように映画館に入った。しかし内容は、ヒッチコック監督の名作と言われるサスペンスであった。

 この映画を観てグレース・ケリーの美しさを知ったが、彼女の美しさ以上に驚いたのはジェームス・スチュアートである。こんなハンサムな人を見た事がなかった。

 その後彼の映画はほとんど観た。ツイードのジャケットは、こういう人が着て初めて似合うものであることを知った。

 社会人になってからはほとんど映画を観たことがない。映画は斜陽とされながらその後も作られたようだ。娯楽から芸術になったのかもしれない。

 最近の若い俳優さんの名前が覚えられない。日本の映画もとっくに終わったものと思っていたが、次から次と、わけの分からないような青年や女性がデビューして映画が作られている。むかしは1年にせいぜい一人か二人が新人としてデビューしたものである。

 ハリウッドの真似をしているのだと思うが、ここ何年か若い俳優たちがレッドカーペットを歩いて、試写会の舞台で行われるトークショーに出演する姿をテレビで見かける。

 しかしどうも似合わない。様になっていないのである。話す内容も稚拙で、撮影の裏話や出演者の痴話みたいなものだけのようである。

 ハリウッドのスターのトークショーというのは、そのスターの映画人としての生命を左右するほどのものらしい。

 そのショーで、センスが良く、ウィットに富んだ、そして誰もが初めて聞くジョークをさりげなく披露し、観客の拍手喝采を得なければスターとは言えないらしい。

 そのためにスターたちは高額な報酬を支払って、作家にジョークを作ってもらう。

 その作家は、そのジョークがどんなに人気のあるものになったとしても、自分の作であることは絶対に口外しない、という話をなんかで読んだことがある。

 小津安二郎という監督はこだわりの監督として有名らしい。ある女優さんがラジオの番組で、監督の指示で箸の持ち方を何十回も撮り直しさせられた、という話をしていた。

 このような話は小津監督が話題になるときいつも出る話であるが、彼女の口調は小津監督への敬意とか、いい思い出としてのものではないようで、何回撮り直したってそんなに違いはないと、明らかに憤慨に近いようなものであった。

 久しぶり椿三十郎を観た。以前放送されたとき録画したものである。

 初めてこの映画を観たのがいつだったか覚えていないが、封切りは1962年というから昭和37年、私が中学を卒業した年である。

 そのころ封切り映画を観るなどという贅沢はできないから、後にリバイバルかなんかで観たものと思われる。

 面白い映画であるが、話の筋に関係なく感心したことがある。「乗った人より馬は丸顔」という城代家老のセリフもいいが、椿三十郎のにぎりめしの食べ方である。

 家老救出の戦いを前に腹ごしらえをするのだが、そのおにぎりの食べ方が実に品がいい。素浪人椿三十郎は、かつては大藩の名のあるサムライ大将ではなかったか、と観る者に想像させるものがある。黒澤監督がそこまでこだわったのか、三船敏郎の生来の品性か。

 この映画は15年ほど前に、織田裕二を椿三十郎としてリメイクされている。ひどい作品であった。作っている途中でなぜやめなかったのかと思う。織田裕二などが演じるような役柄ではない。

 この作品で理解できない部分がある。敵方に捕らわれた若侍達を三十郎が助けに行くシーンで、三十郎は抵抗しない門番までも殺害してしまうことである。三十郎自身が「無駄な殺生をさせやがって」と怒るのだが、これは黒澤の失態である。

 映画は作り話であるが、真実を人々に知らせるものでもある。

一人の男が体をボロボロにして郷里で死んだ。がんであった。

 それまで東京で暮らしていたらしい。中学すら出ていないようで、東京では力仕事をして生きてきたようだ。この男の人生とはどんななものだったのか。

 街で患者に優しく接する白衣の医者を見て、勉強しなければと思う。夜間中学に通うようになって字が書けるようになる。

 手紙はその人にしか言えないことをその人にだけ伝えるものである、と教えられて、あこがれている女性教師に手紙を出す。

 本気で愛を告白したわけではない。自分の気持ちを覚えた字で伝えたかっただけであった。

 しかし、「こんな手紙を出したらあの先生が迷惑するじゃないか」と言ってその手紙を持ってきたのは女性教師本人ではなく、手紙の意味を教えた担任の男性教師であった。

 「おかしいじゃないか、手紙はその人にしか届かないものなのになぜあんたが持っているのだ。なぜ手紙の内容まで知っているのだ」

 男はその理不尽に怒り悲しむ。そして男は、今までの人生を背負い込むように病に倒れる。映画「学校」のハイライトである。

 ここに描かれた男の人生は作り話であるが真実である。観る者はこの映画によって一人の男の死の真実を知ることになる。この映画が作られなければこの男の人生を誰も知ることができなかった。

 1000人の観客がいれば1000の感動がある。感動とは個人的なものであり、真実とは主観的なものである。それが自由ということである。(了)

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