大谷選手の元通訳による窃盗事件は、大谷選手の活躍と共に話題性が薄れてきたように見える。しかしあらためて被害金額の大きさに驚く。
この事件の大谷選手に対する評価というか、印象というか、そういうものは日本と外国では異なるようだ。
日本では大谷選手の水原に対する信頼は純真無垢さの表れと考えるが、アメリカなどでは大谷選手はただの間抜けということになっているらしい。
中規模企業くらいの金額を稼ぎ出す彼は、野球選手であると同時に自身の資産(金銭だけでなく、心身やパブリックイメージ、プライバシーなど)を守るため代理人や会計士、通訳を雇う、いわばチームのボスであるはずだ。それが通訳に手玉に取られていたとなると同情されたとしてもボスとしては失格。
こんなことを日本版Newsweekに書いているイラン出身の記者がいた。
日本人はボスになることが苦手だ、とこの記者は指摘するが、そもそもボスになる必要があるのだろうか。他人を蹴落とさなければ生きていけない民族と、和をもって尊しとする民族とでは生き方が違う。日本には親分はあってもボスという概念はない。親分にはマネージングの意識はない。
テレビの警察ドラマで、石原裕次郎扮する上司を部下がボスと呼んでいたが、どこか知らない国のドラマであるようで見る気もしなかった。苦み走った裕次郎さんの顔がボスを表しているのかもしれないが、眉毛のメイクがイヤに目立ったボスであった。
日本ハムの新庄監督は監督就任の時、「これからはビッグボスと呼んでくれ」と言っていたが、わけの分からないことを口にしているからいつまでも戦績も上がらない。たんなるビッグマウスであった。
映画「ナバロンの要塞」で特殊チームのメンバーと主演のグレゴリー・ペックとの間に確執が生じ、その問題を解決したグレゴリー・ペックに対して反目していたメンバーが、「イエス、ボス」と答えるシーンがあった。これがボスということであろう。
外国人記者の、日本人はボスになれないという批判は理解できないことではないが、さほど意味のある指摘とは思えない。大谷選手は今まで通り純真無垢であってほしい。ボスになったら外国人選手と変わらないことになって、日本人の良さが無くなってしまう。
日本人は人を使うことが苦手なのである。これは会社における上司・部下の関係でも、個人事業における雇い主・雇い人という関係でも、家事労働者の雇い入れにおいてもそうである。
東南アジアでは家事労働者の雇い入れは多いようであるが、日本においては裕福な家においてもさほど積極的ではない。他人に家の中に入ってもらいたくない、台所を他人に触られたくないという気もある。
他人を使うことに慣れていないから日本で人を使うとなると、雇い主のほうが緊張してしまい、お手伝いさんが来る前に家をきれいにしてしまう、という笑い話もある。
泥棒に追い銭という言葉があるが、欧米には絶対ないことだと思う。日本人はこういうことをしてしまうのである。ボスになるはずがない。
日本人は何事にも「すいませんね」である。金を払って客であっても「すいませんね、ありがとう」となる。多分こんな社会は世界にはないであろう。
こんな一言で不愉快な思いをしないで済むならお安いものだ、という意識があるのかもしれない。外国の商店などの店員はみな態度が悪いらしい。気持ちよく買い物をすることができないという話をよく聞く。人間関係は嘘でもいいから穏やかなことがいいのである。(了)
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