我が家の隣は新聞販売店であった。昔から新聞屋と牛乳屋の隣には家を建てるなと言われてきたが、立地の良さから建ててしまった。
6m道路の閑静な住宅地である。土地を買う時、新聞屋さんもそれなりに気を使って静かに営業しているだろうと思っていたがそんなことはなかった。
ひどいものであった。周囲の迷惑ということについて全く何も考えていない。
その新聞屋が何年か前に廃業した。将来的に新聞販売が行き詰るであろうことは話題になっていたが、まだそんなにひっ迫した時ではなかった。
いま思うと早々に見切りをつけたということであろう。
店主はまだ60代初めくらいの二代目であったが、そんなに先が読める人とも思えない。一般の人たちが知り得ないところで新聞販売はとっくに破綻していたと思われる。
新聞販売店の大きな利益は折り込みにあると言われている。折り込みの収入で新聞の仕入れ代金が払えるから、新聞代の売り上げはまるまる販売店の利益になった。
隣の新聞屋もいち早く木造から鉄筋コンクリート造りに建て替えたが、折り込みチラシの儲けによるものであることは間違いない。
折り込みというものは購読者が買った新聞に無断で挟むものである。購読者が折り込みは要らないと言えば折り込みの入っていない新聞を届けなければならない。
しかし慣習的に新聞には折り込み広告が入っていることになっている。購読者もなんとなく承知しているから折り込みが大きな問題として取り上げられたことはなかった。
しかし他人に無断で、他人の物の中に勝手に広告をして稼いでいたことになる。折り込みとはふざけたものなのである。
最近新聞販売店の倒産が増えているらしい。原因は簡単なことである。販売部数の低下、折り込み広告の減少、配達員の確保、人件費の高騰。いずこも同じである。
購読している新聞の販売店は新聞代の集金に来ない。よほど人手が不足しているようである。
新聞販売店の倒産どころではなく、新聞自体の消滅が現実的になっている。全国紙の発行部数の激減が凄まじい。
ここに書き出すのも面倒だからしないが、こうまで発行部数が減っては大手新聞社も立ちいかなくなってしまうのはもはや時間の問題である。
新聞ははたして正義であったか。新聞というと「むのたけじ氏」を思い出す。高校生の時の教科書にむの氏が書かれた文章が載っていた。2016年に101才で亡くなられている。
新聞記者の時代に、狂犬病が発生していることからその危険性を記事にしたら、人間が犬を噛んだという記事を書けと上司から怒られたという話は有名である。むの氏はこれを機に新聞社を退社したことになっている。
新聞は正義だと思っていたが、企業広告で食べている以上正義は限定的である。場合によっては企業の不正に加担することもあるかもしれない。
権力を批判するのが新聞であるが、権力にすり寄るものもある。いつも思うことだが、社会はしっかりしているようで、いい加減なものでもある。
広告に関係のない企業の不祥事は報道するが、広告主の不祥事には口を閉ざす。これでは正義とは言えない。
新聞販売店は夜間大学に通う学生の生きるための場でもあった。地方から出てきてまず確保しなければならないのは食と住である。昔、新聞販売店に住み込みで働く夜間大学生が多かった。
夜間大学生には一流企業からの求人はない。新聞販売店で働きながら検事になり、公認会計士になった同級生がひとりづついる。
新聞がなくなり、新聞販売店がなくなり、夜間大学生も昔のような勤労学生ということではなくなったようだ。
時代をリードしてきた新聞が、進歩する時代に置き去りにされてしまった。
線香の1本も立てて、弔ってあげたい気分である。(了)
コメント