自民党総裁選は今日告示されたらしいが、一政党の党首選びに「告示」という言葉を使うことに言葉の誤用ではないかと思った。
高市さんは化粧を変えたのか。すっぴんではないと思うが薄化粧になってみると、この人もずいぶん苦労してきた人なのだなと思う。
茂木さんがしおらしい。この人はパワハラの人である。多分人生最後の賭けなのだろう。
しかし候補者の政策論争について何の批判もできず、化粧だのパワハラだのと言っているだけの自分が情けない。
総裁選となるといつものように田中真紀子氏が口を出す。
この人の腹いせのような発言が面白いのか、マスコミは時折彼女を起用し、言いたいことを言わせて話題作りをする。
この人の顔に穏やかさを見たことがない。悪い人と思いたくないが、どこかに性格の悪さを感じる。
金権政治と言われ、日本の政治を金で汚した父親の角栄に悪人の顔はなかった。人を顔で判断してはいけないが、しかし顔は人格をあらわす。
「人間には、敵か、家族か、使用人の3種類しかいない」
この言葉は、田中眞紀子氏が外務大臣のとき外務省幹部に対して発言したと伝えられている。
ずいぶん思い切った言葉である。人間には敵か味方しかいない、という言い方は耳なれた言葉であるが、「味方」ではなく「家族」というのは初めて聞く。結局味方は家族以外にいなかったということなのだろう。
当然のことながら「使用人」発言に関しては多くの批判が寄せられた。田中角栄の娘として幼いころから人にちやほやされ、贅沢三昧を過ごしてきた世間知らずの人間の言うことだ、という批判が多い。
「このことばを初めて聞いた時には、なんと傲慢な人なんだろうと戦慄を覚えました」と評する人もいた。
しかし田中真紀子氏が父親の政治活動のそばにずっといて得た人間観は、それ以外のなにものでもなかったということである。
権力を握れば無数の人が寄ってくるが、権力を失えば人は去っていく。去っていくだけでなく裏切り行為を幾度も見てきたのであろう。
「使用人」を人間として認めなかった、さげすんだ、ということではないと思う。使用人にも自分と同じ感情があるということに思いもしなかったということではないだろうか。
このブログを書き終わる時ウィキペディアを見たら、あるわあるわ彼女の不祥事の数々。有名な話になった指輪問題をはじめ、すべてわがまま娘の勝手放題である。政治を語れる人ではない
この人は国民に人気があったと言われる。政治の問題とはこの辺のことなのだといつも思う。どうしてこの人に人気があったのだろうか。歯にきぬを着せぬ言い方が好かれた。そんなことで人気者になる。
政治とはそういうものなのだと思うしかない。進次郎さんも人気者であるらしい。
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