今日は終戦記念日である。敗戦記念日と言うべき日であるが、日本人として敗戦より終戦の方がいいという気持ちも判る。
しかし、終戦としては事実から目をそらすことになる、という指摘にも納得している。
私は戦争を知らない世代である。その世代が80になろうとしているのだから戦争は遠い時代の話になる。
私の父は満州事変で戦争に行っている。従兄は戦艦武蔵とともに戦死している。義父は加藤隼戦闘隊の整備兵であった。
私のそばに戦争はあったが、私は戦争を知らない。戦争は母から聞いたことがすべてである。
戦争に行った義父から戦争の話はあまり聞いたことがない。戦争は人に語りたくないものなのかもしれない。
父は満州事変で肩に負傷し傷痍軍人となった。その父とどうしてか母は結婚した。母の親は結婚に反対だったというが、母は父に何を見たのだろうか。
子供の頃、タンスの中に父の勲章をたくさん見た。戦争に行ったときは独身だったので、危険な命令でもいつも一番に志願した、という話を母はよくしていた。父から聞いた話であろう。
私は、父の勲章も勇敢な兵士であったこともあまり関心がなかった。私にとっての父は、傷痍軍人の服を着て父の姉と写っている写真の父だけである。
戦争を経験していたからか、アメリカの偵察機が東京の上空に侵入したことを知り、父は家族を連れて故郷の千葉県九十九里に疎開した。
この疎開によって母と姉は3月10日の東京大空襲に遭うことはなかった。
九十九里は、アメリカ軍が上陸作戦を敢行する最初の地と大本営が予想した地であるらしい。ノルマンディーと同じ長い海岸である。
1億玉砕は、この地の人々が竹槍をもってアメリカ軍と戦うことが始まりであった。
上陸したアメリカ兵が、竹槍だけで立ち向かう年寄りや女たちを撃ち殺すことはたやすい。
その累々とした屍が皇居まで続くとすれば、アメリカ兵は進軍することに嫌気が差し撤退するであろう、というのが、1億玉砕の意味であることを、ある歴史家の著作によって知った。
しかしアメリカは日本上陸を行わず、広島と長崎への原爆投下で日本に降伏を迫った。母たちは竹槍を持ってあの九十九里の浜で戦うことはなかった。
このところ終戦記念日が近いせいか、太平洋戦争の映像が放送されていた。
2日ほど前には人間魚雷の特集があった。回転と呼ばれた特攻潜水艇である。
この特攻隊の兵士は若い人が多かったそうだが、全員が志願兵であったという。
以前見た神風特攻隊の隊員も全員志願兵であった、とテレビのナレーターは言っていた。軍の命令で特攻隊員にされたのではないというのだ。
特攻隊は、普通の攻撃では戦果が得られないことから確実に敵艦を撃沈するため、兵士から提案されたものだという。本当だろうかと思うが、本当かもしれない。
軍の命令があったはずであるが、戦争は兵士の思考をそこまで追い詰めてしまうものなのか。
終戦記念日に何を思えばいいのだろうか。あの戦争は何か教訓をもたらしたのであろうか。
日本のために戦い死んでいった兵士、空襲の犠牲になった人々。
国は戦争で死んだ人の数を把握していないという。
アメリカ軍にとっては最初から勝つことが決まっていた戦争だった。
アメリカの文書はすべてジャッブである。戦争だから敵を意味する言葉は差別語である。東アジアの辺境の国など、彼らからすれば人間とも思っていなかったであろう。
アメリカ人には日本人というものが理解できなかったらしい。
勇敢に戦い不利と思えば手榴弾を腹に押し当て自爆する日本兵。しかし捕虜となり命を保証されて喜ぶ日本兵もいる。どちらが日本人なのか、判らないという。
どちらが日本人なのか判らない、というアメリカの評価に日本人は関心を持つべきだったと思う。
「判らない」という言葉に、日本人は日本古来の伝統とか神秘性とか西洋合理主義にはない精神性とかを言って日本民族の素晴らしさを言うが、「判らない」ということは、「判るに足る実体が存在していない」ということである。アメリカが言うのはそういうことだと思う。
明治維新を経て西洋化に邁進した日本人の内面の空虚さを、アメリカは透視していたことになる。
戦争は語り継ぐものであるが、語り継ぐ者がいない。
あの戦争は何か教訓をもたらしたのであろうかと思うが、何ももたらしていない。
それを責める立場でも嘆く立場でもない。
戦争の悲惨さを描いた小説は数多くある。確かに悲惨である。人間とは何かと思う。でもなにか「すべてそういうことだ」ということしか思い浮かばない。
戦争の犠牲者を悼みながら戦争の準備をしている。
「新しい戦前」。どこまで考え抜いて発した言葉なのかは知らなが、タレントさんのたんなる思い付きであってくれればいいと思っている。(了)
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