我が青春の夜間高校

つぶやき

 私の社会人としての人生のスタートは中卒の文選工であった。
 文選工といっても今の時代判る人はほとんどいないと思うが、活版印刷における最初の工程である活字拾いのことである、と言っても判らないかもしれない。今では印刷博物館でも行かなければ実物を見ることができないようだ。

 20人ちょっとの、インクの臭いがたちこめる小さな印刷工場が、15才で働き始めた私の職場であった。

 親子4人の母子家庭。母は子供は中学を出たら働くものだと思っていた。母にしてみれば当然のことであり、子供たちが高校に進学するなどということは夢にも思わないことであった。

 夫を早く亡くし、一人で子供3人を育ててきた。子供達が中学を出るまでは、と歯を食いしばって生きてきたと言う。

 母のいとこにおすぎさんという母と同年配の人がいた。母と同じく夫を早く亡くしたが、母より子持ちが早かったらしく、3人の男の子たちは中学を卒業して鉄工所で働いた。

 「おすぎさんはいいね。みんなで力を合わせて働いている」とよく言っていた。それは母にとってとてつもなく羨ましいことであったようだ。

 自分が楽をしたいということではなく、家族みんなで助け合って生きていくことが何よりの幸せと思っていた。

 私は中学の卒業式で答辞を読んだ。中学を出て働き始める生徒が卒業式の答辞を読むことは、その中学校創立以来初めてのことであったらしい。

 もちろん私より成績のいい生徒は何人もいた。私は学年のトップではないが、トップクラスにいた。
 中卒で働く生徒に答辞を読ませるのも面白いかもしれないと、校長さんも了解したのだろう。

 卒業式が終わって教室に戻る時、式に参列していた友人の母親たちから、「どうして就職なんかするの」「どうして高校に行かないの」と皆驚いたように声をかけられた。可哀そうにということだったのかもしれない。屈辱を感じなかったということはないが、答えようもなかった。

 あの当時、昭和37年。東京での中卒者の就職は少なくなり、大学はいいとしても高校までは行かなくては、ということが地方でもあたり前として言われた時代であった。

 私は定時制高校に行こうと思っていた。最近では無くなりつつあるようだが、あの頃集団就職や家庭の事情で高校に進学できなかった人が行った夜間高校である。昔から夜学と言われていた。文選工で夜学となれば小説「路傍の石」の世界である。

 夜間高校に行くことを進学とは言わない。夜間高校にも学校名はあるが、学校名はあっても意味をなさない。社会においては夜間高校は夜間高校でしかなく、卒業しても単に、夜間高校卒、というだけのことになる。

 定時制高校が全日制高校(昼間の高校)と制度として違うところは、授業は夜行われるということはもちろんだが、就学年数が4年間であるということである。

 昼間の高校にない特徴は生徒の年齢である。普通、高校1年生は15才であるが、しかし夜間高校に15才の生徒はあまりいなかった。私のように中学からそのまま夜間高校に行くのは少数派なのである。

 時々新聞などに載る、70才や80才で夜間高校を卒業したという高齢者の人と同級生になったということはないが、クラスメイトは大体が私より3才から5才以上年上の人たちだった。40才以上の人が何人もいた。

 私が通った夜間高校の昼間の高校は、私が卒業した中学校の学区内にあり、都立高校の中でもトップクラスであった。その超名門高校の校舎をいわば借りたような夜間高校に通うのである。
 
 夕暮れ時、普通は下校時であるが夜間生には登校時である。
 下校する生徒と登校する生徒が一つの門ですれ違う。さすが名門高校、下校する学生服姿の生徒たちには品があり、友と語り合う屈託のない表情に優秀さを感じた。
 夜間高校生で学生服を着る者はほとんどいなかった。作業服のままという者もいた。

 夜間高校に夢と希望をもって入学してくる人がいるとは知らなかった。
 私はただ何となく通っていただけで、夢とか希望とかいう言葉に気づくことのない高校生活であった。

 同級生の大半は、中学を卒業して集団就職で東京に来て、勉強したいと思ったのか、友達が欲しいと思ったのか、そういうことから夜間高校に来るようになった人達だが、中には昼間の高校受験に失敗して定時制に来た人や、バイオリン製作の修行のためにあえて夜間高校を選んだという人もいた。
 家庭の事情で高校進学をあきらめた人も多かったから、優秀な人は優秀であった。

 どのような環境であっても、それを生かすも殺すも己の器量次第。しかし私にとって夜間高校はやはり屈辱であり、向上心もなく私はどんどん成績を落としていった。

 進級するたびに、くしの歯が抜けるように教室の机は空席が増えていった。
 夜間高校に4年間通い続けることはやはり簡単なことではないのである。
 みんな頬がこけているような顔をしていた。安アパートや会社の寮での一人暮らし。満足な食事をしている人は少なかったのである。

 私は夜間高校で二人の同級生を知った。
 ひとりは生涯の友となった友人だが、昨年コロナで亡くなってしまった。
 優秀な人だった。社会科の授業の時、生徒を褒めるようなことのない教師が、彼ほどの優秀な生徒を見た事がない、と言わしめたほどの人である。作家志望であった。私があこがれるような、いい文章を書く人であった。

 私は彼から史的唯物論なるものを教えられ、社会の矛盾と言うものに少し関心を持つようになった。亡くなるまで作家活動をしながらも社会運動に奔走した人であった。

 もうひとりは立志伝的人物である。
 15才の時、集団就職で新潟から上京し、池袋のビル管理会社のようなところで住み込みで働き、勉強の大切さを痛感して、その後夜間高校に入学した。

 入学した時アルファベットが最後まで書けなかったらしい。懸命に勉強したようだ。しかしガリ勉ではなく生徒会長も務め、その時の活動が評価され、当時の文部大臣と一緒にテレビに出たこともある。

 早稲田大学商学部に進学した。夜間部ではない。そのころ早稲田大学はいわゆる2部の学部をすべて廃止していた。

 アルファベットも書けなかった夜間高校生が私大トップの大学へ入った。すごいことであった。学費はすべて地下鉄工事のような肉体労働で稼ぎ出したらしい。

 卒業式には卒業生総代として答辞を読んだ。4年間無遅刻、無欠席であることが表彰された。夜間高校では誰にでもできることではない。

 情に訴える文章を書く人だった。
 答辞では、機械油にまみれた指で英語の辞書をめくり、そして学んだ夜間高校での生活が如何に素晴らしいものであったかを述べ、4年間通学することのつらさを乗り越えられたのは、互いに励ましあった仲間がいたからだと感謝し、そしてこの日を迎えられずやめていった仲間の無念に心を寄せた。
 会場は嗚咽がもれ、涙にあふれた。

 昼は印刷工場の職工として働き、夜は高校生というのが私の青春時代であった。
 高校生の空には青空はなく、窓の外はいつも黒い闇であったが、しかしそうであっても暗い青春ではなかった。青春はどんなことがあっても、どんなところにいても青春なのである。

 息子が大学の付属高校に合格した時、何度か息子には内緒でその学校を訪ねた。広い校庭、それとは別に運動用のグランドもある。
 明るい太陽の下、この広いグランドで、息子は自由な、輝きに充ちた高校生活を送ることだろう。私にはできなかったことが息子にはできる。

 少々涙ぐんだ。ただグランドが明るく、まぶしいかっただけなのに。(了)

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