憲法は拳法ではない

つぶやき

 毎日新聞は昨日の夕刊と今朝の朝刊と全く同じ見出しで報じた。「埼玉陥没3ヵ月遺体搬出」

 事故発生は1月28日。事故後何日か後に、ドライブレコーダーの映像なのか、事故の動画を見たが、トラックは道路をカーブしてそのまま穴に吸い込まれるように転落している。
 
 亡くなった方には申し訳ない言い方だが、落とし穴のようである。運転者が抱いた恐怖は想像するに余りある。

 携帯電話でやり取りをしていたということだから、救出は早いものと思っていたが、それから3ヵ月。救出と言っていたが、「遺体搬出」となった。なんとも痛ましい。
 道路が陥没して人が亡くなるなどということは、二度とあってはならないことではなく、一度でもあってはならないことである。

 改修工事に数年かかるということだが、とんでもないインフラの上に人々の生活があることを思い知らされた。

 今日は憲法記念日。「石破首相の在任中に憲法改正を行うことについて尋ねたところ、『賛成』との回答は21%で、「反対』の39%を下回った。『わからない』は39%だった」
 今朝の毎日新聞1面の記事。

 憲法改正について国民は賛成なのか反対なのか。国民の6割くらいは賛成である、という記述がネットにあったが、調査機関や調査方法によってばらばらである。

 憲法改正とは何を改正するものなのか。「自衛隊を軍隊に」くらいのことは分かるが、その以外のことに関しては国民にあまり浸透していないようである。

 自主憲法制定は自民党の党是。自国の憲法が外国によって制定されることなどあり得ない、自主憲法を制定しなければ、という主張には反対ではない。

 ただ気懸りなことがある。自民党主導では国民の利益になるような自主憲法制定も憲法改正もないな、ということである。

 憲法は国家権力を制限するためのもの。自主憲法、憲法改正は国家権力の制限ではなく、国民の権利行使の制限を目指すものとの疑いが消えない。
 それは誰よりも憲法改正を叫んでいた安倍元首相の言動を見ればわかる。

 何年か前、自民党の憲法改正草案を読んだことがある。新設条文もあるし、文言の改定もある。主権在民、基本的人権という立場から読み込めば怪しげな条文だらけである。

 目立たぬ論点を一つ。
  現行第13条 すべて国民は、個人として尊重される。
  草案第13条 すべて国民は、人として尊重される。
 
 たった一文字のことである。個人と人の違い。権力はこの違いの効力を知っているが国民は気づかない。
 
 人は個人として尊重されることが大切である。しかし人を個人として尊重する社会は権力にとって好ましいものではない。いみじくもトランプがそのことを実践している。人の多様性を認めない。

 個人としてではなく、人として尊重するということには意味がない。人には特定がないからである。意味があるとすれば人を犬や馬と同じように扱わないというだけのことである。

 基本的人権は、人が生まれることによって当然に有する権利であり、法によって与えられるものではない。最近このことを理解していない国会議員が多い。

 憲法は懸法。高いところに懸けて権力者を諫めるものである。権力者のための権法ではない。

 このところうつろな菅元首相は、このことについて全く分かっていなかったような印象がある。学生時代拳法をやっていたらしいのだが憲法は身につかなかったようだ。

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