「恥の多い生涯を送って来ました」、という小説に特に共感したということはないが、この言葉には少しドキッとさせられるものがある。私も恥の多い生涯を送ってきた人間だからである。
しかしこの言葉を初めて知ったのは、まだ多くの恥をかく前の中学生の頃であった。中学生の気持ちには、恥の多い生涯というものがどういうことなのだろうか、という興味があった。
「人間失格」は画期的な題名である。この題名からすれば誰もが関心を持つ。太宰さんはコピーライターの才能があった人のようである。
それまで、恥の多い人生をテーマにした小説というものがあったのか、私は知らないが、「命長ければ恥多し」という諺はあった。
「人間生きていくことは恥をかくことである」、ということが昔から言われていたということもある。日本人と恥は身近なものであったらしい。
「人間失格」は青春の書と言われるようであるが、しかしこんな本を青春の本にしてはいけない。
内容からして青春の本になるはずがないのだが、青春は迷えるものであった。だから今でも文庫本は売れているそうであるが、たいていの読後感は、「分からない」というものであるらしい
分からないのが正解である。健全な青年たちがたくさんいるということである。
「命長ければ辱多し。長くとも四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ」
長生きすれば恥が多いことになるから、適当なところで人生を終わりにした方がいい、ということらしい。
室町時代当たりの人の言葉である。当時の40とは今ではいくつなのであろうか。
恥をかいても長生きした方がいいと思うが恥とはそんなに恥ずかしいものなのか。
しかし、恥の多い生涯を送って来たという太宰は38歳で死んでしまった。
太宰治という作家にあまり興味はないが、彼にとっての恥とはなんだったのだろうか。
太宰を理解するには彼の作品とは別に、彼が女性にモテたということを考える必要がある。太宰の周囲には常に女性がいた。自殺をするときはいつも女性と一緒である。恥の多い生涯と言うより、女性の多い生涯と言うべきである。
ただ想像するだけのことになるが、女性にモテるということは男の人生において物凄く重要なことなのではないだろうか。
男はモテてこその人生であって、モテなければ人生ではないと言っても過言ではない。男はモテて、女性に喜びを与えるものでなければならない。
太宰は39年近い生涯において7回自殺を企て、8回目の玉川上水で亡くなっている。狂言自殺とか女性を殺害することが目的ではないかという指摘もあるが、4回は女性を巻き込んでいる。玉川上水では相手の女性もなくなったが、太宰が生き残り、相手の女性が死んだというケースもある。
私が太宰の小説を理解できないのは、私がモテなかったからということではなく、自殺の経験がないからだと思う。
太宰のことで自虐的になってまで書くことでもないが、私も若い頃、多少は持てたが4人もの女性に、「一緒に死んでもいい」と言わしめるほどモテたということはない。
恥の多い人生は誰にでもできることだが、恥も多く、女性も多いという人生は誰にもできることではない。
女性にモテる男は不良っぽい男か、母性本能に訴えるような男ということになっている。太宰は母性本能の方法だったのだろう。
不良っぽくも見えず、母性本能にも訴えることのない男は、生涯モテることもなく、恥しか残らない人生、ということになる。私のことではない。 (了)
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