恍惚のブルースと政治家達

つぶやき

 安倍元首相が暴漢に襲われ亡くなられたのは昨年の7月8日であった。
 その2年前に安倍さんは総理大臣を辞任していた。総理大臣として亡くなられたわけではなかった。

 それに気がつき、その時の総理大臣は菅さんかと思ったが岸田さんだった。そういえば国葬にするとかでいろいろ問題になった。わずかの期間のことでも記憶というのはあいまいである。

 安倍さんが殺害されたのは旧統一教会との関係であった。
 安倍さんを撃った犯人は、旧統一教会によって家族が崩壊し、安部さんが深く教会に関係していることを知って犯行に及んだと供述した。

 旧統一教会と国会議員の癒着が問題になった。自民党などはその大半の議員が統一教会の支援を受けていた。問題にしたがあまり問題にならなかった。

 いろいろ問題の多い法案を強行採決し、長きにわたって政治を支配した人には無残な最期であった。

 こんなことが起きていいのか、と国民は思ったはずであるが、その後残された夫人の今後について興味本位な報道がなされていたが、安倍さがん暴漢によって殺されたという衝撃は、記憶から遠いものになった。

 人は忘れてしまうものである。そのことを自らの政治の指針に据えた人は他ならぬ安倍さんであった。忘れられて本望かもしれない。ともかくご冥福を祈る。

 安倍さんがいなくなったことによって、なにか支障は起きたのか起きなかったのか。
 表面上はただ粛々と時が過ぎていっただけのことであった。
 政治家はこの粛々という言葉が好きなようである。意味があるようで中は空っぽ、と言うときに使う言葉である。

 内閣総理大臣には国会の解散権がある。「国民の信を問う」である。
 議員さんには場合によっては職を失うことになるから一大事である。しかし解散権は内閣総理大臣の専権。誰も指図はできない。やるのかやらないのか、すべて総理の勝手。はっきりさせないほうがいいらしい。

 選挙の投票率は低いほうが組織票に頼る党には都合がよい。都合がよいなどと悠長なことではなく、投票率が高かったら負けを意味することになる。投票率は低くなければならぬ。

 政党を有する宗教団体は、座談会を開いてみんなで台風でも来てもらうようにお題目を唱えているという話もある。
 元寇の時、日蓮さんがお経を読んだから台風が来て、蒙古軍を壊滅させたという話がある。

 細川護熙という総理大臣がいたが、華々しくデビューしたがすぐにやめてしまったという印象しかない。

 新党立ち上げの際、久米宏さんのニュース番組に出演したときは、まさに日本の将来を任せられるような政治家が出てきたと思ったものだった。久米さんもいつになく興奮していたように見えた。

 60歳で政治家を辞めたそうだが、お殿様の気まぐれと言われてもしょうがない。今陶芸家だそうだが、陶芸家に失礼ではないか。

 菅直人という人はどうして人に嫌われるのだろうか。嫌われていないと言う人がネットにいた。ということは嫌われているというのがやはり通説ということになる。
 小沢一郎さんよりはまともな人だと思うが、よほど癖のある人なのだろうか。少し前は四国巡礼をしていたようである。何を祈るのか。

 小沢一郎さんはいろいろ噂のある人である。政界の壊し屋というのが定番であるが、政党の財産である土地を個人名義にしたり、東北大震災の時は選挙地盤の岩手には顔を出すことなく、行方不明だったという話もある。原発が怖かったから逃げていたということになっている。

 奥さんから、小沢一郎は日本のためにならない、という離縁状を突き付けられ、離婚したということになっている。
この人も80歳。何をしたかった人なのであろうか。西部邁氏の言う「背広を着たゴロツキ」という表現がぴったりである。

 ブログを自分で作るなんて時代遅れ、という広告があった。チャットGPTの広告である。昨年ブログを始めて私も時代の先端に並んだか、と思っていたが、1年もしないうちに時代遅れになってしまった。
 何事も「あとはおぼろ あとはおぼろ」である。(了)

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