思惟はしいと読む

つぶやき

 夜間高校の国語の授業で、思惟をしすいと読んだ同級生がいた。

 椅子に座っていた先生が、これはいけない、という感じですぐに立ち上がり、黒板に思惟と書いて、これは「しい」と読む、と生徒たちに説明した。

 私は同級生が「しすい」と言った時、思わず「ハッハッハッ」と大きな声で笑った。

 先生が一応の説明を終えたとき、私の斜め前に座っていた別の同級生が手を上げて、「今の○○君(私のこと)の笑いは実に失礼である。単に知らないというだけのことをバカにしている。人間として最低である」、というような発言をした。

 すると教室内には、その通りだ、という雰囲気が流れ、何人かの同級生は私の方に冷たい視線を向けた。

 私は謝罪を求められたわけではなくその時はそのままで終わった。

 しかし私はなぜ笑ったのか。確かに人の間違いを笑ったのであるが、笑いたくもなる理由があるのである。

 「しすい」と言った同級生は、私と少し親しい仲だった。彼は民主青年同盟、いわゆる民青に参加し、社会の変革を目指している、という人間である。

 しかし民青と言っても女性との交際が目的で参加しているような男である。

 私は民青などによる社会変革などに関心がない。
 事あるごとにマルクスだ、レーニンだ、弁証法的唯物論だと言って、私に民青への参加を勧めた男であるが、しかし深い知識を持っているような人物ではない。

 女性を追っかけている方が似合う男だった。その男が「しすい」。これはもう笑う以外ないではないか。

 後年、私を人間として最低である、と言った同級生と東京都庁の出先機関でばったり会った。

 夜間高校卒業後、地方公務員になっていたらしい。私の必要とする書類を交付する仕事をしていた。

 率直に言って、なんというつまらない仕事をしているのか、と彼に言いたかった。

 公務員の仕事を馬鹿する気はないが、公務員の仕事がしたくてなったわけではないだろう、と私は思っている。

 みんなの前で私をなじった男である。そんなしっかりしたエライ男なのだから、もっと男としてやるべき仕事に就いているべきである、と私は思ったのである。

 昭和40年前後、国家公務員でも地方公務員でも初級公務員は、夜間高校の卒業生や夜間大学に通う学生の受け入れ先であった。

 公務員なんかになって何をやるんだ、ということではない。何をやるのか分からないが、とにかく安定した職業につきたいということである。

 夜間高校や夜間大学の卒業生に、まともな求人などあるはずもない。

 そこそこ頭のいい、しかしトップ大学の学生でない学生は、初級公務員になった。あの時代の若者の働き口を初級公務員は担ったのである。

 しかし昔から公務員に対する世間の風当たり甘くない。黒澤明でさえ市役所の事なかれ主義の公務員を主人公にした映画を作っている。公務員を揶揄するのようなものがこの社会にはある。

 私など人の職業を批判できるわけはないが、そんなことを感じてしまう土壌がたしかにあった。

 以前警察官のなり手がいないということがあって、あまりレベルの高くない高校生が数多く警察官になったという話を聞いたことがあった。
 警察官も地方公務員ということになるのだろう。
 
 社会のことをまだよく分かっていないような若い警察官が、拳銃を身につけて、人を逮捕する権限を持っている。

 そのようなことが意識の中にどのように作用するか。非常に危険なことであると私は考えている。

 それに比べれば、市役所などの地方公務員があまり仕事もせず、責任感がないとしてもまだいい。あまり社会に出てこられては迷惑な人たちである。

 みんなでお金を出し合って、あまり社会に出てこられては迷惑な人たちを、お役所の中にいてもらうことにしたのが公務員制度である、と言う作家がいた。至極名言である。(了)

 

 

 

 

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