JR神田駅の駅名標に、ある製薬会社の社名が記載され、ホームにはその会社のCMソングが発車メロディとして流れているという。
大分話題になっているらしいが、どういうことなのだろうか。
JRも民間企業であるからどんな広告をしようと勝手だが、交通はやはり公共機関ではないか。広告を増やせば社会が活性化するとでも考えているのだろうか。
大分前から野球場に企業の名をつけるようになったが、その球場をホームグランドとするチームとは全く関係のない企業の名になっていたりしている。
球場の収入になるのだろうが、なんでもかんでも「看板貸します」ということになっている。悪いこととは言わないが、なにか納まりが悪い。
このブログに何度も書いていることだが、インターネットのニュースの広告がひどい。記事と間違えるように広告が配置され、記事と思ってタッチすれば薬の宣伝であることが多い。
滅多に脱がないとの触れ込みで若い女性の裸が掲載されるが、滅多に脱がないという女性が何十人も、一つのニュース記事ごとに出てくる。
どんどん裸になって名前を売ろうとする女性ばかりのようである。それにエロ広告がひどすぎる。
日本の社会はもっと品とか節度のあるものと思っていたが、こと広告に関しては滅茶苦茶である。
テレビやスマホの広告だけのことではない。道路を走っていて看板やのぼり旗など、赤や黄色の派手な色合いに本当に情けなくなる。あれでは道路標識も見落とすことになる。
こんなに町が汚くていいのだろうか。町の美化というが、タバコや犬の糞ばかりでなく、町並みということにもっと配慮すべきだ。
慣れてしまったのか、町の汚さに疑問を持たないというのも異常なことである。
厳島神社のある宮島を訪ねると、訪問税という税金がかかることになった。
それはそれでいい結果を生むかもしれないが、宮島といえば厳島神社の美しさと共に、土産物屋の多いことを思い出す。町中土産物屋だらけである。あれでは厳島神社の荘厳さが損なわれてしまう。神様より、もみじ饅頭が主役のような町である。
以前、忍野八海の土産物屋のことについてこのブログに書いたが、あそこもひどい。
昇仙峡などは土産物屋のおばさんが、車の前まで看板を持ち出して店に入れと合図をする。昇仙峡に責任はないが、いっぺんに昇仙峡が嫌いになってしまった。
土産物屋の看板や旗によって、観光地が観光地らしくなっているのが日本の観光地である。
私は外国に行ったことがないが、日本のように看板などがところ狭しと立ち並んでいるところはほとんどないという。
ナイアガラの滝に行っても土産物屋などは1軒もないという話を聞いた。日本であればとにかく「ナイアガラ饅頭」か「ナイアガラ最中」ということになる。
日本人はどこか旅行に行けば「お土産」となる。最近、近所との付き合いは疎遠になりつつあるが、昔は旅行に行けば近所の人の分まで土産を買わなければならなかった。旅行に行くということは晴れがましいことでもあったからである。
「留守にしますのでよろしくお願いします」と隣近所に挨拶をすれば、隣近所は土産を楽しみにする。義母などは旅行に行っても、景色を楽しむことよりもまず土産物屋を気にしていた。
お伊勢参りの時代から、お土産を持たずして帰るということはあり得ないことであったのであろう。
以前フランス人かドイツ人か覚えていないが日本に来た青年が、「日本に来てなにより驚いたのは建物の多様性だ」と言う。多様性といえば聞えがいいが、要は雑多だということである。
素晴らしい現代建築もあれば古い建物もある。コンクリート造りの建物に並んで木造の建物がポツンと建っている。建物の高さも大きさも幅もみんな違う。それらが併存している。驚きだと言う。
しかしそれがよくない、とは言っていない。外国人は露骨に悪口を言わないから、それがいいと言うのか悪いと言うのか、彼の話からは分からないが、ただエキサイティングな町だという。
町中の看板やネオンなども刺激的でいいと言う。よっぽど人も住まないような過疎の町から来たのでは、と思ったが、町に音楽が溢れていることは信じられないことらしい。
これはどうも褒めているのではなく、町がうるさい、ということである。外国では喫茶店でも音楽は流れていないようだ。
外国の町には、そこら中音楽が流れているものと思っていたからこの話は意外であった。視覚には物珍しさがあるのかもしれないが、聴覚では受け付けないというのが面白い。
そういえば日本には飲めや歌えのどんちゃん騒ぎがあるが、外国の映画などでそのようなシーンは見たことがない。
音楽のありようが基本的に違うのかもしれない。(了)
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