幻想交響曲から思うこと

つぶやき

 就寝前の時間をパソコンに向かって過ごすことが多い。
昨夜
なんとなくオーディオのスイッチを入れる幻想交響曲の第4楽章が鳴っていた。最後まで聞くとN響の定期演奏会のライブ放送であった
 当たり前だがCDで聞くのと同じように演奏していた会場はブラボーの連呼である。

番組案内者
である二人の女性アナウンサーやり取りがうるさくて聞いていられない。昔は聴衆の余韻に寄り添うように語ったものである。あの後藤美代子さんを引き継ぐ人がいない。

 幻想交響曲にはいつ聞いても驚かされる。ベルリオーズ20代の作品である。その若さでよくもこんな曲を書けるものだと感心するが、若いからこそ書けた作品かもしれない。

幻想交響曲を初めて聞いたころ、第2楽章の美しさに目を見張った。こんなエレガントなワルツがあるのか。若き芸術家が恋に落ちた美しい女優が目の前にいるようである。


第5楽章は絶叫で終わる。音楽がこれほどの解放感で終わるのは他に知らない。
 芸術家はみんな天才であるから歴史に名をすのであろうが、これほど奔放な天才は音楽史上いないのではないだろうか。

 しかし、クラシック音楽の世界はいつまで何百年も昔の音楽をやっているのかと思う。
 今どき100人もの演奏家が舞台に上がらなければ音楽にならないなどという音楽は時代遅れである。

時代遅れであるからクラシック音楽というのだろうが、しかしあれ以上の音楽生まれないどんなことを言ったってクラシック音楽を超えるものはない。クラシック音楽至上主義ということになるが、それを否定する気はない。
 クラシック音楽は現役の世界文化遺産ということになる

 もう何年も演奏会に行かなくなった。息をひそめて音楽を聴きたくない。
 スタジオ録音しかしないピアニストがいたが、録音嫌いな指揮もいた。
 音楽は、作曲家と演奏家と聴衆で成り立っている、という説明があったが、自宅でオーディオでしか音楽を聴かない聴衆がいてもいい。

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