家宅捜索は検察の花道である。若い検察職員が隊列をなして捜索場所にのり込み、こんなに必要なのかと思うほどの段ボールの山をワンボックスカーに詰め込む。見慣れた光景であるが、検察の権威というものは根こそぎ持ち去るということにあるようだ。会計責任者の立件だけでは意味がない。派閥の幹部の立件あっての家宅捜査だと思うが、そこまでいけるだろうか。
検察や警察が話題になる時、どうしても冤罪を考えることになる。冤罪は「真昼の暗黒」で終わったわけではない。最近では村木厚子さんの冤罪事件があった。長期間勾留した上での無罪判決となったが、大阪地検特捜部の証拠捏造が明らかにされた事件であった。
警視庁公安部による大川原化工機事件もひどいものであった。杜撰な捜査でたらめな証拠によりでっち上げられた事件である。長期間にわたる勾留がなされ、保釈は認められず、役員の一人は拘留中に胃がんを発症して亡くなっている。結果は起訴の取り下げである。
どうも検察などはあらかじめシナリオを策定するようである。それに沿って自白を強要しているような節がある。人を逮捕することが出世になる仕事であるから、冤罪の温床は数限りなくあることになる。
誰かがやらなければならない仕事であるが、自分の子や孫にはさせたくない。真の正義として検察に期待したいが、どうも無理なようである。
自民党の山崎拓氏が、岸田総理では選挙は戦えない、と言い出した。彼らにしてみればキックバック問題というのはそのことでしか意味がないということであろう。小泉進次郎あたりがいいのではないかとまで言っている。CMのキャラクターに、どの芸能人を選ぶかというようなことを言っているようなものである。
安倍派の議員は「キックバックは文化だ」と言っていた。文化とはみんながやっている慣習のことを言う。間違った発言ではないが間違った文化である。
公明党の山口代表は「同じ穴のむじなと見られたくない」と発言していた。
自民党がどういう党であるかは知っていたはずである。知っていて同じ穴に入ったのであるから、当然同じ穴のむじなである。自分だけいい子になろうとするのは幼児であるが、公明党というところはもともとそういうところがある。
このブログで何度か書いてきた「森友学園」への国有地売却をめぐる財務省の公文書改ざん問題で、自死した近畿財務局職員の赤木俊夫さんの妻雅子さんが求めた佐川宣寿氏に対する損害賠償訴訟の控訴審判決が19日、大阪高裁であった。一審の大阪地裁判決を支持し、雅子さん側の控訴を棄却した。
高裁は「一人の人間として誠意を尽くした説明や謝罪があってしかるべきだが、法的責任があるとまではいえない」とした。
法律は真実を明らかにするものではない。損得である。公務員の職務上の行為については国に賠償責任があり、公務員個人には責任はないとされている。赤木さん夫婦の無念は法律では晴らすことができないことになっている。
年末の家宅捜査。政治家たちには歳末らしいはあわただしさがあるだろうが、我々庶民には対岸の火にもならない。穏やかに正月を迎えられることはいいことだが、毎年毎年いい年にならないから、「よいお年をお迎えください」とは年賀状に書けない。(了)
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