8月6日は広島、8月9日は長崎に原爆が投下された日である。今年の夏はそれから79年になる。
アメリカは大量殺戮兵器を、市民をターゲットにして使用した。
広島では14万人、長崎では7万数千人が死亡したとされているが、いずれも正確な人数は把握されていない。
被爆の被害はその後も死者を生じさせている。
核兵器禁止条約は2017年に国連で採択された。日本は批准していない。
採択から1ヶ月後に、外務大臣に就任した河野太郎氏は、2017年11月に更新したブログで、つぎのように述べていた(利兵衛の要約)
「核兵器禁止条約の目的に共感できるが、現実には北朝鮮の『日本を沈める』というような脅威が存在する。条約を批准することは、アメリカの核抑止力によって守られている日本の安全を否定することであり、日本国民の生命や財産が危険にさらされても構わないと言っているのと同じである」
「核の抑止力」を口実に、核拡散が行われていることが核の問題なのに、そのことに対する見解はない。現実と理想は確かに違うが、しかし核兵器廃絶に向けて世界は努力を続けることが大切なのではないか。誰も日本国民がどうなってもいいと言っているわけではない。河野さん程度の人は、こういう言い方をするのが常である。
広島の原爆資料館は、「広島平和記念資料館」が正式名称である。原爆という字がない。
最近はあまり聞かないが「原爆記念日」という言葉があった。「終戦記念日」という日もあった。何を記念するというのか。
広島では「平和記念式典」と言い、長崎では「平和祈念式典」という。
広島の平和公園には「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」という碑文がある。
日本はアメリカに対して、なぜ被害者意識を持たないのか。
原爆を記念日にし、「過ちは繰り返しません」と、犠牲者の死は過ちの結果であると碑文に述べている。誰の過ちというのか。
原爆慰霊碑の碑文の不思議を指摘したのは、東京裁判に参加したインドの判事であった。当事者の日本人は気がつかなかった。
原爆の「悲惨さ」を世界に訴えることが、原爆資料館や平和式典の目的のようである。「悲惨さ」を訴えることが、原爆禁止につながるならいい。怖いもの見たさの「見世物」になっているのではないか。
原爆資料館はアメリカの残酷さを伝えるべきものである。
先年オバマ大統領と被爆者の老人とが抱き合シーンがあった。あれはなんだったのか。あのシーンで何を表したかったのか。
岸田首相は、昨日の式典において次のように話し始めた。
「今から79年前の今日、原子爆弾により、十数万ともいわれる貴い命が奪われました。街は焦土と化し、人々の夢や明るい未来が容赦なく……」
アメリカが原子爆弾を投下したという言葉がない。「過ちは繰り返しません」と変わるところがない。誰が原子爆弾を落とし、貴い命を奪ったというのか。
何十万の人が犠牲になって、79年経っているのに、ずっと日本は何事も曖昧のままである。原爆禁止条約に関する岸田首相の発言はない。
「平和記念資料館」は「原爆大量殺戮記録館」として、アメリカに設置すべきものである。(了)
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