小澤征爾さんが亡くなられて2か月近く経つが、世界において追悼の言葉が続いている。
日本人として初めて世界の音楽界で活躍した人であることは言うまでもないが、尊敬の念を含めて語られたのは小澤さんが初めてではないか。
「日本人にヨーロッパ音楽が分かるか」、という問題が日本のクラシック音楽界には宿命のように昔から存在した。ヨーロッパ人が歌舞伎や能をやるようなもの、本質的なところは分かるはずはない、というのが基調であった。
小澤さんの音楽に対しては、「やっていることはよく分かるが、あまり感銘しない」というのが私の印象である。
的確な言葉がなかなか見つからないまま感銘としたが、要はいまいち深いところでの感動がない、ということである。批判として言っているわけではない。
「日本人にヨーロッパ音楽が分かるか」という問題を小澤さんが考えなかったということはあり得ない。小澤さんの音楽活動は、常にこの問題とともにあったはずである。
小澤さんは斎藤秀雄氏の弟子ということになるが、斎藤氏はもともとチェリストで、独自の指揮教育法を確立した人と言われている。
チェロは名手とは言えないものであったらしいが、神経質な指導者であった方が有名である。
指揮の手本はかつてN響を厳しく指導したドイツの指揮者ローゼンシュトックであるらしい。小澤さんの出発点はドイツということになる。
小澤さんは斎藤秀雄の後、カラヤン、バーンスタイン、ミンシュを師としている。
どの程度の師弟関係であったのかははっきりしていないが、手取り足取り教わったということではなく、各指揮者のいいところを吸収したということではないだろうか。
小澤さんに対する最も大きな疑問は、音楽スタイルの違う何人もの指揮者になぜ師事したのか、ということである。
考えられるのは、一つのスタイルにしたくなかったから、ということになる。
日本人にヨーロッパ音楽が分かるか、ということの根本的な意味は精神性である。精神というものは本来独自のものであり、多様性とは相いれない。
音楽の精神性はドイツ音楽において語られる。バッハ、ベートーヴェン、ブラームス。指揮者で言えばフルトヴェングラーや、ベームであり、その信奉者は今でも消えることはない。日本人はなにより精神が好きである。
フランス音楽には精神はないものとされ、デュトワという指揮者などは軽蔑をもって語られている。
ドイツの音楽評論家は「冷静でありながらパワフルで、明晰でありながら官能的だった」と小澤を評し、追悼記事では、「小沢は哲学者ではないがシャーマン(的な存在)であった」という言葉を述べている。
判りにくい発言であるが、小澤さんを讃えた言葉として理解したい。
日本の評論家は「小澤さんははっきりとした形を持たず、自由自在に表現する。論理を超えて直感的でありながら、みんなが納得するマジックを持った指揮者だった」と述べている。
いずれの言葉も小澤さんをそのままとらえている。私もそう思う。
小澤さんには「魔法」という言葉が共通する。小澤さんが魔法使いを目指したとは思えないが、日本人指揮者として「精神」より「響き」の世界に行かざるを得なかったのではないだろうか。
精神の世界は真似にならざるを得ないが、響きの世界は独自性発揮することができる。
小澤さんは「紛れもなくヨーロッパの音楽家として認められていた」、と前述のドイツの評論家は言う。いい言葉だと思うが、なぜか少し寂しさが残る。(了)
コメント