専門という字が、専問ではなく専門であることを知ったのは高校生の時である。
問題を専ら(もっぱら)考えるから専問と考えていたが、お門違いであった。
漢字は結構思い違いをしていることが多い。考えるという字があるとは知らなかった。考えるは孝えるだと思っていた。
月へんは、お月様の月へんと肉月へんという2つがあるということも知らなかった。腰とか胴とか体に関するものは肉月へんとなる。服は体にまとうものであるから肉月へんかと思ったら月へんであった。
朝はどこから来るのか知らないが、どうしてこの字に月があるのだろうか。確かに朝でも月はある。
体という字は人べんと思っていたが、骨へんであった。体という字の旧字体は體である。骨が豊かと書く。昔から骨密度は大事なものであったようである。
こんなことを書き始めるとキリがないが、暇な年寄りが考えることはこんなことばかりである。
少し専門家というものについて書いてみようと思った。私も去年の3月まで専門家と呼ばれていたのである。
なぜ考える気になったかと言えば、言うまでもなく、最近の専門家が専門家らしくないからである。
専門家というのは、特定のことについて詳しいのは当たり前であって、そんなことを専門家というのではない。専門家とは、事態の行く先を正確に予想できる人のことを言う、と私は考えている。
今の専門家はいい加減な知識をしゃべり、予想なるものは全く的はずれのことを言っている。ウクライナ、コロナ、経済。ここで名前を出したいくらいだが、あの顔を思い出すと不愉快になるからやめることにする。
予想するということは人間生きていく上において重要なことである。危険を予想する。天気を予想する。敵の攻撃を予想する。この能力が無ければ人間は安全に生存できないであろう。
むかし天気予報がない時代、農作業においては村の古老の経験がすべてであった。あの山の雪がなくなれば田植え時だ。この雲がかかれば雨が続く。この風が吹けば台風が近づいている。この気温では冷害になるかもしれない。
人々はその経験が言う言葉に従った。一人の古老が死ねば一つの図書館が無くなったと同じだ、というのは西欧の諺である。社会が維持されるためには専門家が必要である。
名医とは、病状を予想できることである。優秀な弁護士とは、裁判に勝てると予想できることである。優秀な税理士とは、税務署から追徴されることはないと予想できることである。学者は、将来の社会を予想できることである。
政治家についても言いたいが、しかしあれほど担当がしょっちゅう変わっていては、専門家になるヒマもないのではないか。先月まで厚生労働大臣をやっていた人が、今度は防衛大臣なんていうことがよくある。専門家になれるはずがない。
人間歳をとれば、人生の専門家として社会に重宝がられるのかと思ったが、年寄りは面倒だ、関わらない方がいい、という時代になってしまった。
最近では高齢者は集団自決すべきだ、という主張もある。
2025年問題、諸悪の根源がすべて団塊の世代にあるような風潮である。
そんな中、ネットで「クロスジェネレーション」という記事を読んだ。
団塊の世代はかつての年寄りとは違う。彼らが若者であった頃、彼らは今までにない文化を創造し、新しい社会を作った。
大量な年寄りにマイナスだけがある訳ではない。大きな消費を起こす可能性のある世代である。
現代の若い世代と交じりあうことのできる柔軟性を持っている世代である。クロスジェネレーションこそ高齢化社会を迎える社会にとって大切なことだ。
要旨はそのようなことである。団塊の世代に対してこのような捉え方をしたのは初めてのことではないか。思わず筆者を確認した。島袋龍太氏。まだ30代のフリーライターであった。「若いに似ずしっかりしている」思わず年寄り語になってしまった。(了)
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