宗教と常識

つぶやき

 昨日たまたま見ていた民放の番組で、盛山文科大臣の記者会見の中継があった。宗教団体に対する解散請求の表明である。
 こういう時はCMがないNHKの方がいいかと、チャンネルを変えたが放送していなかった。

しばらく盛山文科大臣の発表内容を聞き入ったが、なかなか中身の濃い内容だったように
思う。
 会見を見ていたあるジャーナリスト盛山大臣の踏み込んだ内容に「心を動かされた」「鳥肌立ちました」と述べていた。
 この人はどのような立場の人か知らないが、ジャーナリストが大臣の記者会見などで、感動したなどということは珍しいことである。

 信者のためにも早急な解散命令なり、しかるべき処置がとられなければならないと思うが、手続きや法解釈をめぐって、長い時間を要することになるのではないだろうか。

 いわゆる新興宗教というものに対していつも疑問に思うことがある。
 信者たちは本当に信じているのだろうかということである。

 勧誘活動では、「病気が治る」というのは決まり文句で、子供を授かった、有名大学に入った、大企業に就職できた、美人になった、商売がうまくいって金持ちになったと、その他ありとあらゆるご利益が機関紙などで宣伝される。

こんな話を信者の人たちは本当に信じたのであろうか。
 家族の生活を犠牲にしてまで献金すれば本当に幸せになれると信じていたのだろうか。

 私の母は熱心な創価学会の信者であった。正確に言えば、創価学会の会員であり、日蓮正宗の信者であったということになる。創価学会は日蓮正宗の数ある講のうちの一つであり、布教組織に過ぎないからである。
しかし周知のとおり、
の布教組織が宗門と対立することになり、創価学会は日蓮正宗から破門される。

 母が入信したのは45歳くらいの時のことであるが、先に入信していた叔母の勧めによる。(入会とは言わない。入信である)
 当初は仕方なく入信しただけで、創価学会をまるっきり信用していなかった。前述したご利益など母は全く関心がなかった。

 ただある時、機関誌のある記事に目がとまった。それは、「不幸な人生を送るのは前世の業(ごう)が深いからだ。その業を断ち切るために信心がある」という内容のものであった。
 母はこの業という言葉に気持ちが動いた。「そうだ、私がこんなに苦労しているのは前世の業が深いからだ」と納得してしまったのである。

病気が治るだの、お金持ちになれるだの、という話には全く興味を示さない母が、この言葉には心底共感した。それ以後「私は業の深い人だ」というのが口癖になった。
 旧統一教会の狙いとするところと全く同じ教義で、母も宗教に熱心になってしまった。人それぞれに納得してしまうものがある。それが宗教なのかもしれない。

 どの団体にも学生部というセクションがある。これらの優秀な人材がキャリア公務員や大企業の中枢にいて、大きな影響力を持っているといわれている。
以前、代表者がアメリカを訪問した時、空港
の出迎えや警備などは日本の首相が訪米したとき以上だったという話もある。外務省の職員などは休暇を取って駆け付けたという。
 本当にこの頭脳明晰な人たちも、信仰すれば何事もうまくいくと思っているのだろうか。オーム真理教の優秀な学生信者たちは、どうして気がつかなかったのであろうか。

 東大の学生が、宗教に入会することが信じられない。東大生だって信仰心はありますよ、ということではない。優秀な東大生がありもしない現世利益を信じるということが信じられないのである。
信者の人とそのようなことについて話し合うと
信じられないほうが異常です、ということになる。
 家庭が破滅してしまうまで献金を要求するというのは常識では考えられないことである。しかし人は献金してしまう。ご利益なんてありもしないのに信じてしまう。どうしてなのだろうかと思う。

 どんな宗教でも金がなければ維持できない。新聞を何部も買わせたり、本や雑誌を買わせたり、特権意識を与えて財務部員にしたりして金を集める。
しかし、宗教団体の維持のためではなく、金を集めることを目的とする宗教もある。

 誰でも心に隙間を持つものであるが、そこにつけ込むのが新興宗教である。なにごとも異常なことは異常である。異常には小心でなければいけない。
 信仰心のない人は旅行先の神社のさい銭箱に10円か、ちょっと願いが多いときは奮発して100円くらいを納めるのがちょうどいい。

 盛山大臣の説明は詳細を極めたものであったが、しかし出来すぎの感がある。普段は適当に官僚が作った文書を読むだけであるが、今回は返り血を浴びないように周到に吟味したようだ。()

 

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