死刑になりたかった、と言って凶悪事件を起こす者がいる。さっさと死刑にしてしまえばいいと思うが、裁判を経なければいくら望んでも死刑にすることはできないことになっている。罪も罰も犯人の勝手にはさせない、というのが法治国家である。
人を殺したら死をもって償うべきだ、という考えや感情は決して誤りではない。昔はその考えなり感情がそのまま実行されたこともあったようだ。しかし学問としての法律が社会に普及すると、感情ではなく理性が支配する。
感情が起こした犯罪を理性で裁くことは正しいことであるかも知れないが、大衆の納得が得られない場合も多い。理性と言えば聞こえがいいが、整合性とやらにこだわりすぎて、事件そのものから離れてしまうことが多い。
いきなり死刑とか殺人とか嫌な言葉から書き始めてしまったが、昨日の京都アニメーション放火殺人事件の裁判について思うところがある。
とは言っても私に難しい法律論ができるわけはない。あんな悪人をなぜ弁護するのか、という弁護士に対する庶民感情を言いたいだけのことである。
裁判制度における弁護人の必要性とか役割を無意味という気はない。極めて低いレベルで文句を言いたいだけである。
この事件は4年前、36人が死亡し33人が重軽傷を負った現住建造物放火殺人事件である。犯人は重度のやけど負ったらしいが、医師の懸命な努力により、皮膚の移植などをして死ぬことはなかった。
30数人を殺害したのであるから死刑しかないであろう。死刑になる人間を国が助ける。おかしな話であるがそういうことになる。
弁護人は事実関係を争わないとしたが、犯人が現場にいたのであるから争いようがないということである。しかし心神喪失、心神耗弱を主張した。もし犯人が逃走後に逮捕されたのであれば、証拠不十分とかで無罪を主張したのではないだろうか。
心神喪失であれば罪を問えず、心神耗弱となるのであれば必要的減刑となる。この弁護士が本当に犯人の精神状態に疑問を持っているなら何も言うことはない。しかし裁判遅延や訴訟駆け引きのために主張するなら問題である。
人を殺す意思をもってガソリンを用意して被害会社に向かい、それをまき散らしてライターで火をつけ、計画通り火の海にした。どこに心神喪失、心神耗弱を主張する根拠があるというのか。
30数人も殺害するような常軌を逸した行為をしたのであるから、犯人は正常な精神状態であるはずがない、とでも言うのであろうか。
そうであるなら犯人の意思に反する弁護行為になるのではないか。殺したくて殺したのに、気が狂って殺したと言われては犯人として立つ瀬がない。死んでも死にきれない、ということになる。
とはいえ弁護人は被告の利益になる弁護活動をしなければ会則違反になる。無理を承知で無罪を主張することになる。
弁護人は国選であるらしい。国(検察)は犯人の有罪を主張し、弁護人は国の費用で犯人を無罪にしようとしている。これもおかしな話である。
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