人生、一番最初に接する大人は学校の先生だという。
小学校の1年生であっても、人間を感じることはできるものである。
小学1年の時の担任の先生は女性であった。少し年配であったが、派手な赤い口紅だけが記憶に残る先生であった。
子供であるから先生に対して嫌いとかいやだとかという感情は持つことはなかったが、ヒステリックに怒り出すのはイヤだった。
チョークを投げつけるのである。チョークを投げるときの顔がとても意地悪そうに見えた。あれは生徒のためを思って怒っているのではない。
「あんなに教えたのにまだ分からないの」と生徒の間違いをただ、許せない、という自分の感情のまま怒っていることが小学1年生にも分かる。
小学校、中学校を通じて人間としての素晴らしさを感じた先生は一人いる。他の先生はみなダメな先生だったということではない。子供心に、あの先生はいい先生だったな、と思った先生は一人しかいなかったということである。
先生にもいろんな人がいる。最も悪い先生は「教師なんかになりたくなかった」ということを生徒に言う人である。
なにか意図があって生徒に対して口にしたのかと考えたこともあるが何の意図もない、それだけの先生だった。
なにより先生は生徒に愛情を持てる人でなければいけない。
先生に必要なものは学歴ではなく、生徒に対する愛情、信頼である。
「24の瞳」の大石先生はそういう先生であった。
理想かもしれないが、しかしあれほどの崇高な理想を体現できる職業は先生のほかにない。
私が素晴らしい先生だったと思う先生は英語の先生であった。
中学校の校長をした後、普通の教員になっている。
当時60才ぐらいであったのだろうか。背の低い小さな先生だった。しかし教室ではその体に情熱があった。そして真剣に怒った。
私のクラスには何人かのワルがいた。彼らが先生をバカにして授業を妨害するのである。そのたび先生は真剣に彼らに対して怒った。
そして勉強が大事なことであることを聴こうともしない彼らに何度も話しかけた。卒業してしばらくの間先生と年賀状のやり取りをした。
学校の先生の過酷な勤務状態が何度も報道されているが、改善されたという話は聞かない。
長時間労働や多忙によりうつ病などの精神疾患を起こす先生は多いと言う。
仕事によって精神疾患を起こすなどということは尋常なことではない。しかし文科省が是正すべく検討に入ったなどと言う話も聞かない。このまま放置するのだろう。
先生は子供たちの教育に専念できる環境にいるべきである。
裁判官や検察官などには専門の事務官がつくとされている。一人一部屋の執務室も与えられているようだ。
先生に対してこのような処遇をなぜしないのかと思う。裁判官や検察官などは人間の欲とか悪を扱う職業である。将来の人間を育てる先生とどちらが立派な職業かと言えば、答えは簡単なことである。
先生には助手をつけるべきである。事務的作業は助手がやればいい。先生と言う仕事は雑用の片手間に行うようなものではない。
私は教師の仕事というものが、人の仕事として最も崇高なものだと思っている。
なぜかと問われれば、教師は理想を語るものであるからである。
理想は現実ではない、理想などいくら言っても実社会において何の意味もない、という反論が聞こえるが、それはそれを言う人の心の貧しさを表すものである。
理想は現実ではないから理想なのである。
現実は理想を求めるものであり、理想は人が生きていくために必要なものである。
その理想を自らの言葉と行動で伝えるのが教師だと私は思う。
理想とはそれを語る教師の人格そのもののことである。
生徒はその教師の人格に触れることによって人間の理想を知り、それが心に残る。それが教育である。
30年近く前、教員になりたいという青年と知り合った。きれいな目をしている青年であった。この人は生徒を信じることのできる人だと思った。彼は念願の教師になった。いまでも彼の目は変わっていない。(了)
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