「女は子供を産んで初めて女になる」、と言った市長さんがどこかにいた。
最近これと同じような発言をよく耳にする。
当の市長は市役所で記者会見し「不快感を与え、おわびを申し上げたい」と陳謝した。続けて市長は「発言した記憶はない」としつつ、「私が教育者だった頃、結婚して子供を産んだ先生の生徒に対する対応が、その前と変わったのを見てきたから」と話し、「不快だと訴えられるなら謝りたい」と述べた。自身の進退については「考えていない」という。
自分が発言した言葉が人に不快感を与えることは気が付かなかった、ということを言いたいがための記者会見であった。
しかしどんな説明をしても「女は子供を産んで初めて女になるという言葉は、「子供を産まない女は女ではない」ということを意味することになる。もっとひどい意味も含んでいる言葉でもあるが、ここに書くのはやめておく。
「結婚して子供を産んだ先生の、生徒に対する対応が変わった」、ということを言いたかったのであれば、この言葉は全くその意味を伝えていない。
市長さんがこの言葉で言いたかったということと、この言葉の意味はかけ離れていることになる。市長さんは本当にそう思っていたのだろうか。思っているはずはない。
70歳を過ぎて地位も名誉も教養もあるような市長さんたちが、女性蔑視ととらえられてもしょうがない発言をなぜ繰り返すのだろうか。「そんなつもりで言ったのではない」という弁解の言葉も共通であり、前述のように説得力がない。
女性には不愉快な話をすることになるが、昔から「ありゃあ、女じゃない」という言い方が政治の世界でも社会生活においても言われてきた。男顔負けの能力をもって活躍する女性をそう言って揶揄してきたのである。
女は家庭にいて子供を産み育て、夫に尽くすものとされていた時代は、つい先ほどまで大半の日本人の考えの中に存在していたのである。
さすがに最近では耳にしなくなったが、「子なきは去れ」という暗黙なのかどうかは知らないが、そういうしきたりがあったと聞く。
子供を産まない女性には特別な呼び名が付けられもした。その呼び名は、前世に悪いことをしたことが由来となっているらしい。
子孫を残すという人間にとって最も重要なことが、すべて女性の責任として捉えたのが日本の社会であった。
「女は子供を産んで初めて女になる」という言葉が女性蔑視になる、などということ夢にも思わなかった、という市長の話は多分そのとおりだと思う。とぼけているのでも、しらばっくれているのでもない。ずっと昔から聞いてきたことを口にしただけのことである。
この発言をした市長さんは75歳だそうであるから私とほぼ同じ団塊の世代である。こういう言葉が身の回りにいくらでもあった時代に育ち、生きてきた人ということになる。
男の女性を蔑視するような発言は、妻が注意しなければ男は分からない。男の社会にいては分からないものなのである。
しかし団塊の世代の女性はじっと我慢をして、夫の言うなりの人生を送ってしまった人が多い。団塊の世代は男も女も、過去の古いものを背負って生きてきたのである。
女性が夫のセクハラを注意することが出来なかったということは、女性の女性に対するセクハラ発言も多いということにもなる。
もちろんすべてが悪意ではないはずだが、自分も以前姑から言われてきたことである、ということを理由にする人が多い。
子供を産んだ女性は、子供がなかなかできない女性を理解することができないようだ。「私の娘は亭主が跨いだだけで子供ができたものだが、あんたはまだかね」、などというお姑さんのお嫁さんに対するセリフがあった。
こういうビックリするような言葉をなにごともなく当たり前のように話すのが、こういうことに関する言い方の特徴である。
現代では女性蔑視と言われる言葉は男性が言っても女性が言っても「そんなつもりで言った覚えはない」ということになる。本当に女性を蔑視するつもりで言ったのではないかもしれないが、女性に対する自己の優位性を誇示したいということの表れであることは間違いのない。優位性と言うことは蔑視ということである。
「女は子供を産んで初めて女になる」。この言葉に類する言葉は数多くある。私もそれを聞いてきたし、言ってしまったこともあった。女性蔑視ということより女性にはつらい言葉である。
かつての社会は、女性にそのつらさを口にすることさえさせなかった。今思えばひどい社会であた。
昔はパワハラやセクハラばかりであったが、それが普通のことであった。これからはいい時代になるということであろうか。
若い人たちに「女は子供を産んで初めて女になる」「子なきは去れ」などという言葉を知ってほしくない。
団塊の世代は無意識のうちにこういう言葉を受け継いでいる。団塊の世代は言葉に気をつけなければいけない世代である。(了)
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