妻 を 守 る

つぶやき

 近所に、めったやたらと人を褒める奥さんがいる。この方が50歳頃知り合い、それから30年以上のお付き合いである。

 はじめは人当たりのいい、よくできた奥さんだなと思っていたが、その後、なにかおかしいな、と感じるようになった。

 例えば出かけるときばったり会ったとすれば「ステキです。ステキです」と着ている洋服を褒める。
 歯医者から帰ってくれば「エライです。エライです」と褒める。
 私が庭の掃除でもしていれば「立派です。立派です」と褒める。

 子供と一緒に歩いている人に対しては「立派にお育てになって」と褒める。
 とにかく何でもかんでもこの言葉で褒めるのである。
 ふざけて言っているのかと思ったが、真面目に一生懸命に褒めているのである。
 それもステキです、エライです、立派です、と言うのは、私だから判る、と言いたげな口調で言うのである。

 大分前のことであるが、家内が近所の友達と立ち話をしているとき、その奥さんが通りがかり話の輪に加わった。
 家内の友達に高校生になる男の子がいると聞いて、その奥さんはその子に会ったこともないのに「立派にお育てになって」を連発した。

 しかしその子は当時、高校に行っているのかどうかもはっきりせず、塗装会社で働いているとか、ぐれてしまったといううわさもあった。
 その母親にしてみれば、なによりその子のことが心配な時であった。その母親に対して訳も分からず「立派にお育てになって」を連発する。愚かな人というしかない。

 こういう奥さんであるから人によってはストレートに注意した人もいたようだ。
 夫婦関係のことが話題になった時のことらしい。その奥さんは、自分はあまりその方のことに関心がない、ということをあからさまに口にしたらしい。
 「そんなことは人前で口にするようなことではありません」、と手厳しく近所の奥さんに注意されたことがあったらしい。
つまりこの奥さんは会話ができないのである。何を話していいのかすら分かっていないのである。だから褒めることでしか人と話すきっかけがつかめないのかもしれない。

 家内に相談をしたということではないと思うが、あるときこの奥さんが、友達ができない、と家内に打ち明けたことがあったらしい。
 草木染のサークルに入っているということであるが、みんななんとなく自分と親しくなってくれない、なにかバカにされているような気がする、と言うのである。この奥さんは自分のことに全く気がついていない。
 
 ご主人に言ってみることにした。私はご主人とも長いこと親しく付き合っていた。
 奥さんがこのような会話を今後もしていったら、近所に話し相手になってくれるような友達が一人もいないことになってしまう。
 奥さんの褒め言葉は「言うことに事欠いて」のことであるから人の心に届くものではなく、かえって人の反感や不信をを招いてしまう。それとなくご主人から注意されたらどうか、と話した。

 ご主人は、奥さんの褒め言葉が人に不快を感じさせるものであることに気がついていないようだった。むしろ自分の奥さんは人付き合いが上手いと思っているような印象もあった。この妻がいてこの夫ありである。
 それから何十年も経ったが、先日もがん検診の帰り、私の着古していた普段着を見て「ステキです。ステキです。立派です。立派です」と声をかけられた。

 こんなに長く近所の奥さんのことを書くつもりはなかったが、原稿の半分以上を使ってしまった。
 どうしてこの奥さんのことを書く気になったのだろうかと考えてみた。
 奥さんもご主人も変な人ではない。息子さんを東大法学部に現役で合格させた優秀な家族である。

 ご主人は私の忠告に対して何もしなかったようだ。私の忠告はなんの役にも立たなかった。奥さんは相変わらず近所で「ステキです、ステキです。立派です、立派です」を真顔で繰り返している。
 それを言わなければ自分自身が存在できないような感じさえある。それを批判されては奥さんは生きようがないのかもしれない。

 ご主人は、他人の気持ちがどうであろうと妻の気持ちに添うことにしたのだろう。何も奥さんに言わなかったことによって、私の批判から妻を守ったことになる。
 夫婦関係に理屈を持ち込んでは他人になってしまう。なんとなくくっついているから夫婦である。
 やはりどんなに妻が間違っていても、それを直せない人であるなら夫は妻を注意してはいけないようだ。(了)

 

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