女性の幸せというものを考えさせられる女性が女房の友人にいる。
私もその人を若い頃から知っていることから、その人の近況を聞くたびに気になる。
その女性は女房の高校時代の同級生である。何より1番に特筆すべきは、とてつもない美人であるということである。
高校を卒業して大手銀行に就職して、ある大手食品会社の御曹司に見初められ、結婚ということになった。
その御曹司の親が住むお屋敷の一角に、新婚用の家まで建てたところ、その結婚は破談になってしまった。
原因は、彼女のお母さんが御曹司の両親にまともな挨拶ができなかったということにある。彼女の母親は東京の下町で定食屋を営む店のおかみさんであった。
その後彼女は年下の同僚銀行員と結婚する。
しかし夫は結婚後銀行を退職して不動産会社を始める。一流銀行の行員の職を捨てて町の不動産屋さんになってしまったのである。
その商売がうまくいっていなかったということだろうと思うが、40代半ばに借金を残して自殺してしまった。
子供は男女2人いたが、二人とも成人していた。年金受給の要件を満たさないので年金はないらしい。お金がないことからか、子供たちとも疎遠になっているようだ。
五郎兵衛とかいう農家の家主の名前をつけたような東京近県の安アパートに一人で暮している。
あれほどの美人が、というのが彼女について話をするときの最初の言葉である。
彼女の不幸と美貌はどうしても釣り合わない。
では美人でなかったら気にならないのか、と問われたら、そうだ、としか言いようがない。男から見たって、女性から見たって、美人は裕福な人と結婚して幸せになる、ということは当たり前のことである。
しかし、美人でない人は幸せになれないということではない。美人でない人には気立てというものがある。男はこの気立てというものに弱い。美人でない人は気立てで勝負できる。
女房の友人は、誰が見ても美人で気立てのいい人であるから彼女の不幸をことさら思う。彼女は、誰もが羨む幸せになる人だった。
女性の幸せというと歌謡曲が浮かぶ。昔から女性の幸せや不幸せを歌った歌は多い。
しかしそのほとんどの作詞は男性である。銀座のクラブなどでホステスを侍らせ、水割りを飲みながら、思い浮かんだ言葉をコースターかなんかの紙に走り書きして一作出来上がりというものである。
こんな程度で女性の幸せを歌うのであるから、女性の幸せはいい加減なものとされていた。
大津美子という歌手が歌った「ここに幸あり」という古い歌がある。いまでも懐メロの定番であり、昭和歌謡の名曲とされている。
その歌詞に「きみを頼りに私は生きる。ここに幸あり」という部分がある。
以前、某大学の先生であり、都知事選にまで立候補した、あまり美人ではない女性評論家が怒った歌詞である。
大津美子さんが声量を張り上げてこの歌を朗々と歌うと、メロディラインがゆったりしていることもあって堂々とした歌になってしまう。
幸せを求めるひ弱な女性の歌としては立派すぎる。大津美子という女性は、女の幸せというものを知らない人のようである。
女性を歌った歌謡曲の中で何より大嫌いな歌がある。女のみちとか女の操とかいう歌である。いずれもお笑い芸人が歌った歌であった。
この下品な歌詞と歌い手の下司ったい顔つきが、私の我慢の許容を超えているのである。
こんな歌がレコード売り上げトップだったという。歌謡曲がだめになった原因は、歌い手や作家にあるのではなく、こんな曲を聴く者にある。
女房の友人の不幸は夫の自殺である。普通の生活からすれば特殊なことである。しかし日常あり得ないことではない。自殺を選択せざるを得ない人生というものがある。
私の友人は、小学生の女の子一人を残して自殺した。通夜の晩の、その女の子の顔が忘れられない。
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