執 着 心  

つぶやき

 私はあまり物事に執着するということがない。物事に執着しない性格ということではなく、面倒くさがり屋で飽きっぽい性格であるから執着しないということである。

 中卒で印刷工場の職工となり、その時から自分の将来に対する希望のようなものを持つことはなかったが、単に努力することが嫌いなだけだった、ということが正直的を得ているかもしれない。

 定時制高校の同級生に、中卒で地方から集団就職をして4年目に入学してきた人がいる。勉強が必要であることを痛感したらしい。入学したときはアルファベットが書けなかった。

 しかし努力を重ね、早稲田大学商学部に進学した。入学金や授業料は収入のいい地下鉄工事やビルの工事現場のような危険なアルバイトで稼ぎ出したらしい。

 自分の将来をどうするかは自分の努力次第である。私は貧乏のせいにして努力しなかっただけである。彼の早稲田進学は私にそれを教える。

 彼は卒業後政治家の議員秘書などを勤めたのち、郷里の県会議員を何期も務め、地域に貢献したようだ。

 彼に確認したわけではないが、「故郷に錦」ということにこだわったのだろうか。

 早稲田に合格した時、わざわざ私が働く印刷工場に訪ねてきたことがある。私は根性とか忍耐とかいったことが好きではなかったから、彼とは相性が合わなかった。彼もそれを認識していたようである。

 彼は「俺が勝った」ということを言いたいがために訪ねてきたようであった。
 人間の行動の原動力なるものとして、「故郷に錦を飾る」、「人に自慢する」ということは大きな力となるのであろう。
 
 やはり大きくても小さくても、なにか執着心を持った人間が社会において事をなすものである。執着心を持たない人間には個性も魅力も感じるものがない。

 サラリーマン時代に知り合った仕事の出来ない人達を思い出す。全く仕事ができなかった。動いているのだが、目的に沿った動きをしていない。

 サラリーマンをやっていて仕事ができないとなればどうするのだろうか。今は知らないが、昔はそういう人間にも会社は給料を払ってくれるところであった。
 
 何度左遷されても左遷と気づかず、割増退職金を提示されても定年までいた人がいた。こういう人でも人生何か得るものがあったのだろうか。

 学生時代に牛丼屋でアルバイトをしてそのまま勤め続け、その会社の社長になった人がいる。

 空港の女性の清掃人が、工夫とその卓越した技術により世界一の清掃人と評されるようなった人がいる。

 牛丼屋、清掃人。どう考えるかである。なにか執着するものがなければそこまで行けないはずである。

 若い頃サラリーマンを経験したが、この会社で頑張ろうとか、なんとか出世しようとかいう気は全くなかった。こんな会社に長くいてはいけない、こんな人間と一緒にいてはいけない、ということばかり考えていた。

 そんなことから結局自営するしかなく、仕事を通じた友人というものもいない。
 自分の思った通りの人生であったからそれでよかったと思うが、もう少し大きな仕事が出来なかったであろうか、と思うこともある。(了)

コメント

タイトルとURLをコピーしました