在るところの無  

つぶやき

 在るところの無」とは、若い頃どこかで聞きかじった言葉である。
 哲学に関連することらしいが、私が考える「在るところの無」とは、ワードの変換から出てきた「あるところ飲む」という程度のことである。

 哲学で思い出したことだが、戦後町の鉄工場で働いていた義父は、工学部鉄学科に進んでほしいと願っていた息子が文学部哲学科に入学した事を知ってずいぶん落胆したらしい。しかし自分と同じ「てつがく」を選んでくれたと喜んだという。人生何も知らないふりをして良く判っている人であった。

 「在るところの無」という言葉の用例を知ったのは、歌舞伎や人形浄瑠璃の黒衣(くろご)のことからである。黒子と言うのかと思っていたが黒衣が正しいらしい。黒子はほくろであった。

 黒衣は見えないことが約束事になっている。だから「在るところの無」の説明によく使われるらしい。
 オーケストラの指揮者は本来黒衣だと思うが、どんな楽器奏者よりも目立つことになっている。

 文楽と人形浄瑠璃の違いを知らないが、あの人形劇において名人と言われる人形遣いの人が演じると、人形の姿しか観客には見えないという。そんなはずはないと思うが、そういう逸話が日本人は好きである。

 素直で人柄のいい人間が強情な性格であることが多い。「おっしゃる通りです。私もそう思います」とにこやかに返事をしながら人の言ったことを守ろうとはしない。これも「在るところの無」と言っていいではないかという気がする。

 障子やふすまの遮音効果はゼロに近いが、聞こえないことになっている。
 これも「在るところの無」かもしれない。
 日本の家屋は秘密保持に関しては全く無頓着である。内緒話は「もっとちこう寄れ」ということになる。時代劇の内緒話はほとんど顔を突き合わせている。

 多少は格調高いことを書きたいと思って書き始めたが、ここにきて気がついたことがある。「在るのだが無である」ということである。つまりは年寄りのことではないか。(了)

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