今年4月に、靖国神社の新しい宮司として、海上自衛隊OBの人が就任した。階級は海将ということであるから、自衛隊組織のトップクラスの人ということになる。
毎日新聞の記事によれば、「神道政治連盟」という政治団体の機関誌に、「台湾有事を始め、これから直面するであろう有事において,戦死した方々をどのようにお祀りするのか、神社神道がはたすべき役割は、きわめて大きなものがある」
そうした中で、
「自衛隊におられた方が靖国で祭祀をなさるということは、来るべき有事を考えれば、大変心強い」
という記述があったという。
何が「大変心強い」のか。
「これから生まれるであろう戦死者を、戦前・戦中同様、靖国に合祀するうえで」、ということらしい。
靖国は、国のために戦って死んでいった人々を祀る神社として創建されたものであるから、そもそも平和を祈願する神社ではない。
毎日新聞の記事は、宗教者であれば「有事」を避けるために、各国の宗教関係者と共に民間の平和外交に取り組むべきだ、と結んでいるが、それは無理というものである。
靖国神社は宗教である前に軍事施設である。
憲法改正は自民党の悲願であるが、アメリカに押し付けられた憲法を誰よりも反対して、改正なり自主憲法制定を叫ばなければいけないのはリベラル派ではないだろうか。
自民党は、戦後1955年立党時以来、GHQ占領下で制定された憲法の自主改正、自主憲法制定を目指すことを明確にしている。
社会党、共産党、近時の民主党、現在の立憲民主党においては、現行憲法護持である。
保守が改革を目指し、革新が保守を主張する。これはやはりおかしなことである。
しかし憲法改正は改革ではなく復古であり、革新は無策ということであって、少しもおかしなことではないことに気づくはずである。
「国体」という言葉があった。現代では死語になったように思える。
保守が目指すものは憲法の改正や制定ではない。それらは過程にすぎず、敗戦によって否定された国の在り方である。
どこの国にも名称は違っても、「国体」というものはある。どういう「国体」にするかは、国民の平和意識、人権意識などにかかっている。
戦後保守は国体という言葉を使わない。国体という言葉を使うことによって、自らに不利益が及ぶことを知っているようである。
しかし目指しているのは、教育勅語と一体となったあの「国体」ではないか。
「国体」はいつまでも、「日本で毎年開催されるスポーツの祭典」の意味であってほしい。
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