元内閣総理大臣安倍晋三氏の国葬が行われた。テレビ各局は中継したようだ。夜のニュースで献花や菅氏の弔辞の場面を見た。私のとる新聞の朝刊は国葬の内容を伝えることはなく、国葬に関した賛否、分断、説明責任、安倍氏の評価などの記事を掲載していた。
これで国葬に関する議論も終わる。自民党議員が言うように、「済んだこと」になったからである。統一教会の問題もこれで終わりとなるだろう。メディアにとってもはや何の価値もないからである。国民もすぐに忘れてしまうだろう。
国葬の様式は決まっていないようだ。祭壇は安倍氏の写真と花だけで特別な置物というものはない。どこかの一代で財を成した社長さんのお別れ会のような設営である。宗教色はなかったように見受けられた。僧侶の姿はなく読経もない。日本のどこでも見かける無宗教の葬儀と同じようだ。
私は無宗教だが、しかしやはり僧侶はいた方がいいと思う。憲法の定めから宗教色のない葬儀になるのであろうが、しかし参列者が手を合わせる姿を見ると、葬儀はどんな形をとっても人の死を仏や神に祈るものであることに気づく。死は人の手の届くものではないからだ。外国人の目にこの国葬はどのように映ったのであろうか。
菅前首相の弔辞をネットで読んだ。ある自民党の議員は「あの弔辞を聴けば誰も国葬をやってよかったと思うのではないか」というような談話をしている。確かに切々と心情を綴っている。死について述べているのであるから感動的になるものである。菅さんの弔辞は前内閣総理大臣、友人代表という肩書でなされたものである。しかし国葬という場で読み上げる内容であっただろうか。
なぜ国葬でなければならないのか分からない国葬であった。国葬と言うにはやはり国民の過半数が望むことでなければならないだろう。国葬とは法律解釈の問題ではなく国民の気持ちのことであるからだ。
選挙期間中の応援演説で銃撃され死亡した。テレビはその現場を映し出し、安倍氏が一発目の銃撃に振り向く姿までとらえている。見る者誰もが息をのむ画面であり、ドラマでしか見ることのない映像を見た人の衝撃は大きいものであったろう。それは今までになく人々の同情をひくものとなった。
岸田首相はなぜ国葬にしようと思ったのであろうか。何はともかく、深い考えもなく咄嗟に浮かんだのであろう。「国葬もんだ」と思ってしまったから、国民の同意は問うまでもなく、みんな納得すると思ったのであろう。
国葬にしてどんな政治的、社会的効果を予想したのであろうか。この辺がこの国葬のすっきり、はっきりしないところである。国葬の論争は、おかしいという主張に対しておかしくないという反論だけである。子どもの言い合いである。いや小学校の学級会の方がよっぽど論理的で潔い。
安倍氏の国葬は靖国神社で行うのが一番よかったのではないかと思う。まさにこころざし半ばにして凶弾に倒れ、国に殉死した英霊ではないか。安倍さんも、もし生きていればそれを望んだのではなかろうか。
靖国神社に国の機関として議員が参拝することは違憲とされる。しかし参拝する議員は国のために死んだ英霊を敬うことは当然のことだとして、国会議員の肩書で参拝する者もいれば個人として参拝する者もいる。
私は国会議員だろうと個人だろうと参拝することを批判する気はない。しかし知っているべきであるのは、靖国神社に祭られている英霊は、国のために死ねば神として靖国神社に祀られるとして、餓死し、敵艦につっこみ、武器もなく火炎放射器に焼き殺されていった人々のことである。
靖国神社は国民を戦争に駆り出すための装置であったことについて、参拝の前にその許しを乞うべきである。戦争で死んだら神になる、などとこれほど人間を冒瀆した言葉があるだろうか。高市議員さんなどはどう考えるのであろうか。
式典においては、安倍さんがピアノで弾く「花は咲く」が流されたという。安倍さんの遺志には軍艦マーチが最もふさわしいと思うが、いろいろなことに、いろいろな配慮をしなければならない国葬であったようだ。(了)
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