団塊の世代が老害とは

つぶやき

 先日、世代とか日本の人口の推移とかをネットで調べていたら「団塊の世代の老害」、という記事があった。

 老害は私より上の世代のことではないかと思っていたから、思いもしない見出しに関心が移ってしまった。

 読んでみて実に腹が立った。「人の話を聞かない、視野が狭い、自分だけが正しいと思っている、店員に怒鳴る、頑固である、駅員と揉める」、と何十項目にわたり言いたい放題のことが書いてある。呆れてしまうほどだ。

 さらに不愉快なのは対処法なるものが書いてある。これがまた実に失礼千万なのである。
 「自分から近寄らないようにする、反論しない、聞き流すようにする、世代のギャップとして諦める」
 もはや怒り心頭である

 では団塊の世代をどう捉えてこんなことを言っているのかと読み続けてみると、「戦争を経験していないので本当の苦労を知らない。戦後教育環境が悪化した時期に子供時代を過ごしている。高度成長期に働き盛りだった。バブル期に役職がついていた人が多く、会社のお金でおいしい思いをしてきた」

 こうなると団塊の世代に対する悪意以外のなにものでもない。団塊の世代をおとしめるような政治的背景があるのだろう。

 戦後のベビーブームによって生まれた多くの人口を有する世代を「団塊」と名付けたことが、将来その世代が高齢化した時に起こりうる問題について人々が大きな関心を持つきっかけとなった。

 名付け親は言うまでもないが堺屋太一さんである。小説「油断」など社会にインパクトを与える言葉を作るのがうまい。本名かと思っていたらペンネームであった。

 小説「団塊の世代」で終身雇用、年功序列といった日本の社会特有の構造は将来的に維持できず、年金制度、医療制度は崩壊するとしている。

 1976年に連載が開始されたそうだが、第1次オイルショックの数年後のことである。堺屋太一さんの予言は当たったというべきであろうが、通産省の官僚であったという立場からは、日本の将来というものを見通せたのかもしれない。

 なにかと日本社会の衰退は、団塊の世代に非があるような言い方がまかり通っている。最近では高齢者は集団自決するべきだなどと、団塊の世代をターゲットにした極論があたかも正論であるかのにように主張されている。

 しかし日本の社会を低迷させた原因は団塊の世代にある訳ではない。
 こんな落ち込んだ社会になっても持ちこたえているのは、団塊の世代が頑張って積み上げた貯えがあったからではないか。
 日本を世界第2位の経済大国にしたのは、集団就職の中卒者を含めた団塊の世代ではないか、と言いたい。

 団塊の世代は競争心が強いとか我が強いとか言うが、団塊の世代の心情というものについてどう捉えているのだろうか。

 悪口はたくさん挙げているが、いい意味での心情についてはひとつも記載がない。
 団塊の世代を理解、賞賛しようという姿勢が見当たらない。
 団塊の世代のためにも考えてみることにした。

 団塊の世代が前の世代から影響を受けた心情なるものがあるかと言えば、考えられるものはやはり戦争である。

 団塊の世代は戦争を経験していないが、親を通じて戦争のある面を知っている世代である。

 受け止め方は人によってもちろん違うだろうが、親の戦争体験は結構心に響くものである。親が引きずっているもの、あるいは引きずりたくないものに少なからず影響を受けている、と思う。

 団塊の世代に独自の心情というものはあるのだろうか、あるとすればなんだろうか。思い当たるのは他人に無関心、他人のことなど構っていられない、ということである。

 他人に無関心という風潮はこの世代から始まったのではないかという気がする。人数が多く、少しでも豊かな社会になればそういうことになりやすい。いい意味の心情を探したかったが、見当たらなかった。

 とはいえ私は団塊の世代でありながら団塊の世代的ではない。
 なぜかと言えば競争といえるような入試を高校でも大学でも経験していないし、ちゃんとした会社で高度成長に貢献するような仕事をしたこともない。
 同僚と出世争いをしたこともないし、会社の役職について会社のお金でおいしい思いもしたこともない。

 私は親から聞く戦争体験を交えた人間関係の濃密さを心情に持ちながら、他人に無関心な友人や同僚と接してきた。
 人間関係において、いつもどこか食い違っているな、と思う団塊の世代もいるのである。(了)

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