喉 頭 癌 (2)

咽頭がん

 ブログを読んで、癌を患っている人が多いことを実感する。
 どなたかが書かれていたが、癌は切り取っても隠れている。本当にタチの悪い病気だと思う。

 癌は体中のどこにでもできるものらしい。それこそ頭のてっぺんからつま先までである。先日PET-CTを受けたとき技師が、「頭のてっぺんからつま先まで撮影させていただきます」と言っていた。

 加瀬邦彦という人が喉頭癌で亡くなったということを知った。
 安井かずみさんのことをネットで見ていたとき、この人のことが書いてあったのである。ワイルドワンズというグループサンズのメンバーで作曲もしていたらしい。

 ネットで見てみると食道癌を発症し、その治療後、下咽喉癌も発症して声帯の切除をしたということであった。
 自殺と書いてあった。呼吸のための吸入器を自ら詰まらせて、ということらしい。
 
 コロナ騒ぎになった年の、その前の年の暮れから正月にかけて肝膿瘍で入院した。人生初めての入院であった。

 敗血症の危険があるということで、医師は一時を争うという感じであった。敗血症は渡辺徹さんの死因であり、そのためか最近ではその危険性が何かといわれている。

 私はその時、まださほど体の異変は感じていなかった。しかしそのまま病状が悪化して意識不明となれば、何も分からないまま死んでいたことになる。

 去年1年の間に、全身麻酔というものを3回経験した。
 3回目の時は、いつまで意識があるのかしっかり見定めよう、と思っていたが、麻酔が入ります、と言う医師の言葉は聞こえたが、その後の記憶が全くない。死ぬということはこういうことであろうか。

 「終わりましたよ」、という執刀医の言葉で目が覚めた。三途の川を渡った夢は見ていない。渡っていたらこの世に戻れないということなのだろうか。

 自分の病気をしっかり認識できるうちは、病気であってもまだ元気ということかもしれないが、癌という病気はどうもそうではないらしい。
 本人に分からないように命に浸潤していくような気がする。

 昨年亡くなった義兄も亡くなる直前まで元気であった。先日1周忌となった家内の絵の先生も病状は進んだとは言え、亡くなる直前まで元気であったと聞く。

 私の姉も、亡くなる2週間前に見舞った時は、しっかりしていた。どうして癌は急変するのだろうか。

 死について考えることも大事なことだと思う。人間、生と死であるが、生、つまり生まれ出ることについては考えることはできないが、死については考えることができる。

 しかし死について考えることはできると言っても、生きているときに考えることであるから、厳密に言えば死についても考えることはできないことになる。

 そういう意味では生も死も、人間自分の思いのままになるものではない。唯一人間が考えることができるのは、どうやって生きていこうか、ということだけである。

 人間の死にはいろいろな言い方があるだろうが、ここで私が思うのは覚悟の死と突然の死である。

 覚悟には納得した覚悟と、無念の覚悟がある。突然の死には納得も無念もない。
 覚悟を迫られた死の悲しみを想う。突然の死に残された人を想う。痴呆症になって死んでいくことは、どういう死なのであろうか。

 「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いは、最大の難問であると言われている。いろいろな答えがある。お寺のお坊さんは、この質問にどう答えるかが腕の見せどころらしい。

 仏教にはほとんど関心がないが、前世、現世、来世という考え方に多少関心を持つようになった。

 現世が悪いのは前世で悪いことをしてきたからである。来世では幸せになるよう現世を生きる。実に功利的である。

 死んでもあの世がある。若いときは全く気にもしていなかったが、この歳になると、あるのかもしれない、と少し思うようになった。

 「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」と思うのであれば、死んでしまえばいいのである。

 生きることは自分の勝手である。誰が命じるものでもない。どうにでもなることである。

 どうせ死ぬのに、死ぬまで生きなければならないのが人生である。自死する勇気や狂気やあるならそうすればいいのである。

 少し訳の分かるお坊さんはこの質問に答えない。この質問をする人は、この質問の答えを求めて質問しているのではないことを知っているからだという。

 高校の時の体育の教師が一つだけ記憶に残ることを言った。「人間は同じ姿勢を長い時間続けることはできない。そのことを理論化したものが体育である」

 なるほど、そう言えば考えることも見ることもなんでもそうである。
生きるだけのことを考えては行き詰まる。たまには死について考えることも視界が広がることになる。

 人間なにより変化の中に身を置くことが大切なような気がする。(了)

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