哀愁の町に霧が降る

つぶやき

 もう20年以上も前のことであるが、伊香保にゴルフに行ったときのことである。
 夜、食事を終えてホテルのバーで仲間とカラオケに興じ、私は「哀愁の町に霧が降る」を歌った。
 するとバーの女性が、むかし山田真二がこのホテルに泊まり、自分が客室係をしたことがあると言う。山田真二が如何にハンサムであったかを夢見るように語るのである。

 山田真二さんは俳優であり、歌手であった。調べてみると私と10歳違い。2007年に70歳で亡くなられている。

 確かに大変な二枚目であった。人気が出るのも早かったが人気がなくなるのも早かった。10代で映画に出演し、大ヒット曲となった「哀愁の町に霧が降る」は19歳の時の歌である。

 この歌は映画にもなったらしい。むかしは歌がヒットするとそれに合わせて映画化する。なんとなくつじつまが合った映画が作られる。脚本家を褒めるべきなのか、安直な制作を批判すべきなのか。

 この歌の作詞は佐伯孝夫、作曲は吉田正。三浦洸一が全盛の時で、フランク永井が大ブレークする直前のことである。

 「落葉しぐれ」が1955年。「有楽町で逢いましょう」が1957年。二つのヒット曲に挟まれた1956年の歌である。私はまだ小学生であったが、今までにない都会的な雰囲気に「いい歌だな」と思った記憶がある。

 テレビの懐メロ番組で山田真二さんを見ることはなかった。
 20代の終わり頃には芸能界を引退していたようである。

 大分歳をとられた時だと思うが、懐メロ番組に出演されたことがあった。その頃はスナックを経営されているという紹介があった。

 もちろん「哀愁の町に霧が降る」を歌ったが、多分カツラと思われるヘアーがずれていた。顔はむかしを彷彿させる二枚目のままであったが、カツラが新調ではなかったようだ。
 テレビに出ないほうがよかった。あんな二枚目なのにカツラが合っていない。

 今の芸能人はひと山当てれば何億もの資産家になる。反社会団体との関りを問われ芸能界を引退した漫才師は、「貯えでいくらでも食べていける」、と豪語していた。セクハラの疑いを言われている漫才師も、「いつ辞めてもいいんだ」と言っている。

 山田真二は漫才師ではない、天下の二枚目である。
 彼が晩年苦しい生活をしていたとは思いたくないが、いかんせん人気があったのは60年も前のことである。

 このところ補聴器の具合をためすために懐メロを聞く。「哀愁の町に霧が降る」を聞くたびに、山田真二の端正な哀愁に充ちた顔を思い出す。(了)

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