吉田正と船村徹  

歌謡曲

 吉田正さんと船村徹さん。言うまでもなく戦後の歌謡曲の世界で活躍した作曲家。

 私は東京の下町の繁華街で育ったから、物心がついたときはいつも歌謡曲があった。
 町のパチンコ屋や映画館街などは一日中歌謡曲を流していた。今では騒音問題になる。
 昭和20年代の後半から30年代にかけてのこと。戦争が終わってまだ10年も経っていないのに社会は結構騒がしく、人々はささやかな仕事に気ぜわしく動いていた。

 この頃の歌謡曲といえば男性歌手では春日八郎と三橋美智也ということになる。
 藤山一郎や岡晴夫がいたではないか、とのご指摘があるかもしれないが、この二人の時代は終わっていた。

 三橋美智也の歌は当時8歳くらいの子供にも何か響くものがあった。人生初めて耳にする歌謡曲である。昔の歌と比較してどうのこうのというのではない。流れる歌をそのまま聴いて〝いいな〟と思うのであるから、歌に力があったのであろう。
 「おんな船頭唄」、「リンゴ村から」、「哀愁列車」。遠い昔の、あの町の喧騒とともに聴こえてくるようである。念のため、これらの歌は吉田正さんや船村徹さんの作品ではない。

 この頃に春日八郎が歌う「別れの一本杉」という歌が登場した。春日八郎はこの歌の前に「赤いランプの終列車」がヒットし、さらにその後の「お富さん」がそれこそ爆発的にヒットしたから人気は最高潮だったはずである。

 お富さんはまさに戦後の人々の鬱積を取っ払うような歌であった。
 妻の父は戦争体験者であるが、戦後の混乱期を町工場で働いた。戦争から受けた思いにはつらいものがあったと思うが、その父がこの歌に手拍子を合わせ、楽しそうに酒を飲む姿が目に浮かぶのである。
 
 「死んだはずだよお富さん」こんな歌詞を声を上げて歌うこができることに、平和とか生きていることの喜びなどを感じていたのではないかと思う。もちろんその時の義父の姿を見たわけではないが、この歌を聴くと、何も偉そうなことは言わず、カラオケが好きだった義父を思い出す。

 赤いランプの終列車もお富さんも船村徹さんの作品ではない。「別れの一本杉」は作詞家の高野公男さんとの作品となる。その後「柿の木坂の家」、「王将」そして「風雪流れ旅」と船村徹さんは名作を発表し続ける。

 人々が、こんな都会的な感じの歌謡曲を聴くのは初めて、というのは「有楽町で逢いましょう」ではないだろうか。このことについても異論はないと思っていたが異論があることに気がついた。

 この歌の前に同じ作詞佐伯孝夫、作曲吉田正による三浦洸一が歌った「東京の人」という歌があった。いずれもしゃれたカタカナが使われている。トレモロ、ティールーム、シネマ、ロードショー。

 あの時代トレモロなどという言葉を庶民は知っていたのだろうか。ウィキペディアのない時代である。純喫茶という店は知っているが、ティールームと言うとは知らなかった、ということもあったのではないだろうか。

 ちょっと寄り道をするが、純喫茶の純とはどういう意味なのだろうか。不純ではないということなのだろうか。

 話を戻すが、いずれの歌も優しい歌だが衝撃的であった。何が衝撃的だったかといえば、都会をテーマにした歌が今までなかったからである。「有楽町で逢いましょう」のほうがより衝撃的であったかもしれない。前奏のギターのメロディとフランク永井の低音は今までになく魅力的であった。

 低音の歌謡曲歌手というのもそれまでいなかったのではないだろうか。
 またちょっと横にそれるが、フランク永井さんは低音の美しい歌手であったが音域が狭いということではない。彼はテノールであるといってもおかしくないほど高音の出せる人である。昔彼の歌をカラオケで歌って気がついたのである。低音も高音もファルセットも美しく歌える素晴らしい歌手であった。

 吉田正さんの名曲は数限りない。吉田メロディと言われるように天才的なメロディ作家といっていい。
 同じようなメロディラインをどの曲も持ちながら、聴く者に似ているという印象を与えない。「いつでも夢を」などはやはり秀逸な作品といっていいと思う。

 自らを天才と自負していたように見受けるが、そう言っても納得する作家であった。
 戦後シベリアに抑留されたときに作ったという、後に「異国の丘」という曲が、作曲家になるきっかけになったという。
 専門的な音楽教育は受けていないようだ。やはり天分があったのだろう。
 吉田正さんは船村徹さんより11歳年上である。吉田さんは橋幸夫さんの曲も作ったから都会派一辺倒ということではないが、やはり基調は都会的なスマートさにある。

 船村徹さんは求道者のように、日本人の心の原風景をなるものを追い求めたようだ。
 ゆるぎない名声を得ながらギター1本をもって全国か一部か知らないが、地方を回って居酒屋などで、それこそ流しのようなこともしたらしい。直接庶民の心情を感じ取りたかったのであろう。立派である。

 吉田さんが天才的なメロディ作家としたら船村さんは職人的作家ということになると思う。
 吉田さんのメロディは始まったメロディラインを変えることがない。しかし船村さんは実に自由にメロディを変える。転調ということではない。
 ここで美空ひばりに高いGの音で歌わせたいとすると、そのように曲の流れを変えてしまう。これは誰にもできることではない。分かりやすく、それでいて難解な理論を秘めた音楽を作った人である。

 吉田正さんは没後国民栄誉賞を受けた。船村徹さんは生前歌謡曲作曲家として初めて文化勲章を受けた。
 方や国民の娯楽に貢献したと総理大臣が褒めた。方や国の文化に貢献したと国家が認めた。
 どっちかの方がエライということになるのだろうか。(了)

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