ここ何年か前から国会の質疑で「印象操作」という言葉を聞くようになった。亡くなった安倍元首相が多用していた言葉である。
印象操作とは、「他者に与える自分の印象を、言葉や服装などによって操作すること」というのが一般的な定義である。
そういうことであるなら悪い言葉ではない。誰も自分をよく見せたい。女性の化粧などは印象操作そのものということになる。
しかし国会などでこの言葉が使われるのはそういう意味ではない。
印象操作には、「特定の人物に対する第三者の印象を悪くするように操作すること」という意味が他にある。「特定の人物」だけでなく「特定の事柄の印象を悪くすること」も含まれる。
国会での疑惑追及において安倍さんの言う印象操作とは、追及に対するやり返しである。
印象操作というから分かりにくくなるが、要は安部さんは野党議員の追及を、「証拠もなく、私が悪者であるかのような印象を与える発言は印象操作であるから撤回すべきである」、というように印象操作という言葉を使ってはぐらかしたのである。
安倍さんが使うとずるい言葉になる。森友問題、加計問題など、安倍さんに対していろいろ疑惑が指摘された際、安倍さんはこの言葉をもって質問者にやりかえし、問題をうやむやにした。
安倍さんに対する質問は印象操作ではない。事実と思われる疑惑の追及である。
「印象操作である」という安倍さんの発言は、疑惑について質問をしている議員を悪者にしようとする言葉である。「何か良からぬ意図をもって私をおとしめようとしている」ということに問題をすり替えるものである。
印象操作なる言葉は単なる開き直りなのである。そのような使い方が多くなってきたことが問題である。
裁判において自由心証主義というものがある。字面からすれば難しそうなことのように思えるが、はしょって言えば「裁判官が感じたまま、思ったままにに裁判をすればいい」ということである。
刑事裁判においては、検察官は被告人が有罪であることを主張し、弁護人は無罪であることを主張する。
矛盾する双方の主張に対し、裁判官がどのような印象を持つか、ということが裁判である。
決定的な証拠があれば裁判官はその証拠によって判断するが、それがなければ自分がどう感じたかで判決する。
人の人生を決めるかもしれない裁判が、裁判官の気持ちのおもむくままに決まるということである。考えてみれば危険なことでもある。
裁判官に偏見があれば、自由な心証というものは訳の分からないものになる。しかし裁判というものはそういうことにならざるを得ない。
人生、第一印象によることが多い。第一印象を信じて、それが続くか、それが間違っていたかが人生である場合もある。誰でも自分のための印象操作はする。
今日はこれから通所リハビリに通うために、ケアマネージャーという人が面接に来る。介護施設通いを希望する古ぼけた老人には見られたくない。
高齢ではあるが普段着の好みに品があり、格調高い家庭のご当主と見られたい。こういう印象操作大事なことである。(了)
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