出世魚・叔母夫婦・負けは人生の糧

つぶやき

 成長とともに名前が変わる魚がある。出世魚と言われるが、成長とともに味が良くなるということではないらしい。

 ブリは出世魚としてよく引き合いに出されるが、季節によってはハマチの方がうまいという話もある。

 コノシロという魚はシンコやコハダの成魚であるが、あまり歓迎されない。
 成長と共に名前は変わってもこの魚は出世魚とは言わないそうだ。
 あえて名付けると逆出世魚と言うらしい。
 無理して出世しなくいい。シンコのにぎりは江戸前寿司の最高の味である。

 私の周囲は一段と老化が進んでいる。私の住む町は新駅の開設とともに開発された町であるから同世代の人が多い。

 この町で子供を育て、子は成長して離れて行き、そして定年を迎え、それぞれの老中を過ごしている。

 死に向かってしまった人が多くなってきた。痴呆になってしまった人の話を人づてに聞くことも多くなってきた。

 少し前まで、「みんな歳をとったがまだまだ元気だ」、という時期があった。それから「みんな本当に年寄りになってしまった」という時期になった。
 人生は逆出世魚である。

 最近叔母夫婦のことをよく思い出す。父が死んだ後、私たち家族はこの叔母夫婦の家に居候することになった。

 今思うと幼い子供3人をよく住ませたと思う。昭和20年代の貧しい時代である。叔父から小言を言われたことは一度もなかった。

 ケーキ屋と喫茶店を経営していたが繁盛していたらしい。
 叔母は派手好きであったから50歳を過ぎて琴や舞踊の習い事を始めた。熱海や湯河原などの温泉地に毛皮のコートを着てよく出かけて行った。

 しかし晩年が悲惨であった。全く人生設計というものをしていなかったようだ。
住む家もなく、最後は夫婦で受刑者の施設のようなところで住み込み管理人をしていた。
 
 叔父は70歳を前にがんで亡くなり、叔母は八王子滝山病院で無惨な生涯を終えた。75才だった。
 もう40年以上も前のことになる。豊かな暮らしから暗転した人生であった。
 
 人生に無駄はないと言うが、生きることに繋がっていることであれば、確かになにも無駄はない。生きることに繋がっていなければ人生は終わっていることになる。

 人生に無駄はないというのは、人生の成功者が言うことである。人生の失敗者は無駄なことばかりしてきたから失敗した、ということになる。

 高校野球の慶応と仙台育英。負けは人生の糧になるようだが、勝ちは人生の何になるのか。勝ちが何よりも大切なはずである。挫折してこそ人生だ、という風潮が出てきたが、悪いことと言う気はもちろんない。

 就活で挫折経験が聞かれるらしい。意外に思ったが、企業というものは人の挫折経験まで商売に利用しようということである。どこまでやる気があるのかを見定めるためらしい。

 「決勝戦で負けたら今までの努力が無駄になる」。その通りだと思う。勝負は勝ってこそのものである。負けて花実が咲くものか。

 勝負で負けた選手を慰める言葉を聞いたことがない。負けた選手を慰める言葉はこの世に存在しない。

 「人生敗者復活戦、人生七転び八起き。転んでもただでは起きない。失敗は成功の母」いずれも敗者を慰めるものではなく、気持ちをそらすためのものである。
 敗者は慰められたら惨めである。敗者を慰めてはいけない。

 私は挫折を経験したことがない。人生の高みを目指したことがないからである。こういう人生も、挫折を知らない人生ということになる。(了)

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