高校生の頃、新聞のサークル会員募集欄を見て、ある合唱団に入ったことがある。みんな私より年上で、高校生らしき人は私しかいなかった。
入団して間もない頃、その合唱団の会報に掲載されたメンバーのエッセイが、私の気持ちに大きく響いた。書いた人は30代後半と思われるような男性である。
エッセイの内容を詳しく覚えていないが、女性との別れらしきことがあり、ひとり冬の日に薬師寺への旅に出て、東塔の厳しいまでの美しさに感銘した、というようなことだった。
失恋の話が私の気持ちに響いたわけではない。東塔を「凍れる音楽」と表現したことに感動したのである。
「凍れる音楽」。なんと素晴らしい言葉であろうか。薬師寺東塔の美しさを表す言葉にこれ以上のものはない。
この言葉によって、薬師寺東塔への私の憧れは強いものとなった。
しかしその後二度ほど薬師寺を訪ねたことがあるが、どうも東塔と「凍れる音楽」がしっくりとは結び付かない。
端正な姿であるが、「凍れる」と言うのとは違う。あの大小六層の屋根には躍動感があり、華やかということではないが、決して孤独とか寂寥を感じさせるものではない。
「凍れる音楽」というより、率直に「天平の妙なる調べ」というべき優雅さがある。
どうして東塔が「凍れる音楽」になったのか。感動が疑問へと変わっていった。
「凍れる音楽」は、明治の時代アメリカを経て、ヨーロッパから輸入された言葉であると言われている。建築物を指す文学用語であるが、ヨーロッパでは「凍れる」音楽とは言わないらしい。
すべてが凝縮され、ひとつの無駄もない名曲のように、完成度の高い建築物を形容する言葉であるという。
原語には凝固と訳すべき言葉が付されているようだが、アメリカ経由で日本語に訳されたときは、凝縮→凝固→凍れる、となってしまったようなのである。
「frozen music」をどう解釈するかということである。
これが事実であるなら、「凍れる音楽」は笑い話になってしまう。私は笑い話に感動したことになる。
話を変えるわけではないが、モーツァルトのト短調の弦楽五重奏曲を、小林秀雄氏は「疾走する悲しみ」と表現した。
日本のインテリを代表する人の言葉であるから、「そうか、モーツァルトは疾走する悲しみなのか」、と音楽愛好者は納得した。
モーツァルトにとってト短調は宿命の調性と言われる。それはそれでいいが、ではニ短調はどうするのか。レクイエム、ピアノコンチェルト。ト短調より悲しみは深い。
夜間大学生の時、サークルの寄せ書きノートに、「人は本当に人を愛せるだろうか」という一文を書いたことがある。
これが結構受けた。特に、こむずかしい理屈を言うような女性から、「あなたは愛について真剣に考えている人だ」などという評価をいただいた。
しかしそんな気はない。みんな愛は素晴らしいとか、愛こそすべてなどと言っているから、へそ曲がりなことを書いたまでのことである。
この女性は何人かの男性遍歴を経て、結局結婚も破綻した。言うまでもないが私は無関係である。
「人は本当に人を愛せるだろうか」などということに関心も持たず、いつもケラケラ笑っている女性が幸せな人生を送るものである。
人生とはナンジャラホイなのである。
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