「錦秋の候 皆様にはお変わりございませんか」、と手紙をしたためたいところであるが、私は生来の悪筆。
仕方なくワープロで年賀状も手紙も書くことになるが、錦秋という美しい言葉をワープロで印字したところでなんの想いも伝わるものでもない。達筆であったらどんなに気分のいいことだろうかと思う。
きのう青梅に蕎麦を食べに行った。行きつけの店ではなく、御嶽駅の近くにある藁葺き屋根の店である。
多摩川沿いはところどころ紅葉が始まったくらいで、まだ秋たけなわという色ではない。今年はことのほか暑い日が続いたから紅葉も遅れるであろう。
錦秋とは10月の季語だそうであるが、今では高い山や北の地方に行かなければ味わうことのできない季節になった。
関東で紅葉が遅れるということであれば、京都の紅葉は11月の末あたりになる。
京都の秋は錦秋ではなく、錦繍の秋と言った方が風景に合う。
京都の秋は艶っぽ過ぎるのである。とても諦観とか枯淡とか言った境地になれるものではない。
紅葉を求めていろいろと郊外を走っているが、なにか「待った」をかけられているような気がする。
100メートル競走のスタートのように、今年は時期になれば人々は紅葉をめがけて一気に飛び出しそうである。
青梅で時間を過ごしているとき、最高裁大法廷の決定を知った。
戸籍上の性別変更に、生殖能力をなくすことが必要とする法律の規定について、「違憲」とする判断を示したのだ。
しかし外観要件と呼ばれる制限については審理差し戻しとした。性転換には法律的な問題もいろいろあるものだと、いまさらながら知ることになった。
裁判のことではないが、以前から気になることがある。それは主に中国人による日本の土地や水資源の買い占めである。だいぶ前から新聞は警告的に掲載している。
日本の政府はこの問題をきちんと把握しているのだろうか。
国交省にも首相官邸にも、この問題を専門に取り扱う部署は存在していないように思われる。
中国は華僑の国である。どこにでもネズミのように住み込んで既得権を主張する。日本の政治機構が管轄などでなすりあいをしているうちに、土地も水も乗っ取られてしまうのではないだろうか。
肝心なことは青梅の蕎麦であった。畳敷きに椅子、テーブルを配した店内である。
いつものようにもりを注文する。
食べ慣れた私の好きな味であった。つゆは濃い目で女房は辛いと言うが、蕎麦湯で飲む味は初めて知ったおいしさであった。
吉川英治記念館に寄った。今の若い人たちには聞いたこともないような名前であろう。来館者の減少により閉館していたということだが、再開したらしい。
この地で新平家物語は書かれたという。離れの書斎が今も残っていた。
この小説は、戦乱で荒廃した京都の町を、若い清盛が浮浪者のようにさまよい歩く姿を描くことから始まっている。
後年、吉川英治さんは、清盛をそのように描いたのは、戦後の混乱を経験した者として、清盛の出発点を焼け野原に置きたかったからだ、というようなことを述べていた。この小説は昭和25年から連載が始まっている。
あれほど一世を風靡した作家でも忘れ去られていく。そういうものなのだろうと思う。
青梅の山々にはどうも錦秋という言葉は似合わない気がする。どこか武骨さがあるからである。
「山笑う」、は春であるが、秋は「山装う」
人の賑わいが終われば晩秋となる。晩秋には寂しさがあるが、ぬくもりも似合う言葉である。
青梅での蕎麦の帰り、「冬隣り」と言う言葉を知った。味わい深いものがある。
「晩秋」に人を想い、「冬隣り」に季節を味わう。今年はいい暮れになりそうである。(了)
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