先生と呼ばれたい

つぶやき

 国会の議員さんたちは「先生」と呼ばれることになっている。三原じゅん子も生稲晃子も先生と呼ばれることになる。これほど不似合いな言葉はない。

 中国では「先生(シエンション)」は大人の男性に対しての敬称で、日本語で言う「~さん」と同じ意味らしい。

 バブル華やかな頃、中国人画家の絵を買ったことがある。絵と言ってもリトグラフであるが、それでも当時数拾万円という価格であった。

 その画家が日本に来て、どっかのホテルで展示即売会を行った。私も顧客として画家に紹介され、サイン入りのポスターをもらったが、そこには私の名前の下に「~先生」と書かれていた。

 そうか中国人は顧客に先生と言う言葉を使うのかと、多少感激したが、そういう意味の先生のことであった。

 若い頃勤めていた建築会社の常務取締役は、当時30歳を少し過ぎたくらいの若い男であったが、会長の娘婿であり、東大法学部の出身であった。

 あるとき弁護士と日照権か何かの問題で面談することになったとき、その弁護士を「センセ」と呼んでいた。センセイではなく「センセ」なのである。

 その言葉の響きには、「あなたは私学出の弁護士、私はいつでも司法試験などに合格する能力がある東大卒であるが、弁護士などつまらない職業だからなる気はない」という意識があったように思う。考えすぎかももしれないが。

 世の中、先生と呼ばれる職業は学校の先生と人の命を助けるお医者さんだけでいい。

 やはり日本で言う先生には尊敬というものが含まれている。先生と呼ぶには、一般の人にはない高度な知識と能力を持った人に限られるべきではないかと思う。

 そういうことから法律の世界であえて言えば、先生と呼んでいいのは弁護士・公認会計士くらいなものではないだろうか。弁護士も近頃は量産のため大分質が落ちているという話もある。

 最近では大した資格でもない士業の連中を先生と呼ぶようなことになっている。司法書士や行政書士などのことである。代書屋がなぜ先生なのか。

 私も先生と呼ばれる仕事をしていたが、事務所内で先生と呼ぶことは禁止して名前で呼ぶようにしていた。
 顧客から先生と呼ばれるが、そのときは「先に生まれただけのことです」言っていた。それだけのことなのである。
 
 世の中には先生と呼ばれることに無上の喜びを感じる人がいる。以前相続のことである女性司法書士に相談したことがあるが、私は一切先生とは言わなかった。あんな資格は誰でも取れる。役人の下働きのような情けない仕事である。

 何かの話のとき、その人はなにより先生と呼ばれることがうれしいと私に語ったことがある。
 以前会社勤めをしていた時、同僚たちからずいぶんいじめにあったようだ。司法書士になって、あの同僚たちには及びもつかないほど偉くなったと思うのであろう。

 週に1回、訪問マッサージ師として我が家にやってくる青年は、自分で言うように、あまり頭がよくないから高卒で学校はやめて、あん摩の学校に入って手に職を付けた、ということらしい。

 この青年、先生と呼ばれることに生きがいを感じているようで、高齢の顧客から先生と言われると、医者になった気持ちになるらしい。

 学校の成績も大したことなく、あん摩の学校にちょこっと行って資格を取って、それで「先生」になれるならこんな安上がりなことはない。

 偏差値でふるい落とされて、落ちこぼれていた者が、世間から先生と呼ばれることの嬉しさは、なった者でなければ分からない。

 しかし医者になった気でいるというのは、やはり低い偏差値のせいだろう。世の中の理解ができていない。

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