働き甲斐は仕事の内容による

つぶやき

 何日か前、いわゆる反社会的勢力という組織にいた人が、超難関と言われる司法書士試験に合格して開業したという話があった。

 以前には、背中に般若か観音様かの大きな入れ墨をしている女性が司法書士試験に受かり、その後司法試験にも受かって、入れ墨の弁護士さんとして活躍している、という新聞記事もあった。

 反社会的勢力の組織にいた人が司法書士になった、弁護士になったという話はニュースになる。意外なことであるからであろう。

 しかし試験であるから、入れ墨のある人の受験はお断り、などの制限がない限り、どんな人であろうと合格点をとれば合格する。
 努力すれば人生のリセットができる社会というのはいい社会である。

 しかし説明することでもないが、司法書士試験は超難関な試験ではない。
 勉強もしていない人が受けるから合格率が低い数字になるということであって、決められた通りの勉強をすれば偏差値が最低の人でも誰でも合格する試験である。

 受からない人が数多く受けることが、この社会の貧しさ、行き詰まりを表している試験であると言われる所以でもある。

 司法書士は単なる代書業である。何の創造性もない。
 この試験に多数の社会人や若い人が受験する。何か寂しい気がするのである。若い人はもっと溌溂とした仕事に就くべきである。

 人生はまさに公務員採用試験の初級、中級、上級である。いまさらながらこのシステムに感心する。

 人はいずれかのクラスに所属して生きて行くことになる。誰もが上級になれるわけではない。大半の人は初級ということになる。上級者には人生の迷いというものはないようだが、初級者は迷う人が多い。

 以前、仕事で知り合った不動産会社に勤める若い人達が会社を辞めたがっている話を何度も耳にしたことがある。

 こう言ってはいけないのだろうが、ほとんどの人が優秀といわれる大学の出身ではない。なんとなく就職をしたがこんなはずではなかった、という話ばかりである。

 民間の就職試験においても初級、中級、上級の表示はした方がいいのではないだろうか。自分の人生が初級であることに気づかないからである。

 私は上級の社会を知らない。知りようもない。このいわば人生のクラス分けは、他のクラスのことは分からないことになっている。

 初級は上級のことが分からない。上級は初級のことが分からない。社会が分断されるということではない。

 社会にはもともと区分けというものがあった。どうしたって上下というものはついて回るものである。

 初級の人生をどうするか。それに甘んじるか、甘んじないか。それだけのことである。冒頭に述べた人たちのように、初級から外れてしまった人もいる。どうするかは己の考えひとつ。

 人生やってやれる人もいれば、やってもやれない人もいる。やってもやれない人は従順な人生を送るよりしょうがない。

 人生やはり働き甲斐というものは必要である。しかし区分けされた社会には働き甲斐というものはないように思う。働き甲斐はこの区分けの外にあるものらしい。

 私は今まで働き甲斐などというものを考えたことはなかった。
 サラリーマン時代は会社に出勤して給料をもらうことだけである。
 自営になっても働き甲斐というものはなかった。ただ自分が体を動かした分、確かに収入は増えた。それが働き甲斐なのか、はっきりしないがそうかもしれない。

 以前私の事務所でわずかな期間であるが働いていた青年がいた。仕事を辞めるとき、この仕事に何のやりがいも感動も感じなかった、と私に言った。
 しかしそんな仕事から得た給料で彼はしばし糊口をしのいだ。
 彼にはやりがいはなかったかもしれないが、私にはやった甲斐があった。(了)

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