先日このブログで触れた、「日本人はボスになるのが苦手だ」というイラン人記者の記事の中に、「私は選手を信頼しても、信用はしていません」という長嶋監督の言葉が紹介されていた。
この言葉が少々気になっている。「信頼しても、信用はしていません」という言葉は論理として成り立つのだろうか。
信頼と信用は次のように説明されている。
信頼とは相手の能力や人柄を信じて頼りにする、双方向的関係。
信用とは相手の実績を信じて評価する一方通行的なもの。
この定義が正しいとすれば、長嶋さんの言葉は成り立たないことになる。信頼も信用も要は相手を信じることであるから、「信じているが信じない」、というのはありえない。
信頼は双方向的関係で、信用は一方通行的なものだとすれば、長嶋さんは選手と会う時は「信頼している」と言い、気持ちの中では「信用していない」ということであるから嘘をついていることになる。長嶋さんはそんな人ではないが、物事を考えて口にするような人ではない。
調べてみると、長嶋監督が言った言葉であるとはどこにも載っていないが、野球監督の言葉として紹介されていたが2つあった。
星野監督が原監督に野球のアドバイスをしたときに言った言葉であるとするものと、野村監督の野球哲学の中で示した言葉であるというものである。
二人の人が言った言葉だというのであるから、この話もハッキリとしたものではないようだ。
星野監督の言葉であるということについて、そんな気もしないではないが、彼の場合は、「私は選手を信頼も、信用もしていない」ということではないだろうか。
彼はよく熱血漢と言われたが、選手の失敗をなじるような人でもある。選手を信頼するような人格者ではない。
野村監督の言葉だというのも納得しにくい。野村監督の場合は、「自分の野球哲学に選手を信頼する、信用するということは一切存在していない」と言うはずである。
自分の考えがすべて正しいとして野球をやってきた人である。選手を信頼するなど一片でも頭にあるはずがない。
星野説も野村説もいずれも作り話ではないか。
分かったようで分からない言葉とすれば、長嶋監督が言った言葉というのは本当かもしれない。言葉の意味を分からずに口に出してしまう人だからである。
「決してネヴァーギブアップしない」「開幕10連戦を7勝4敗で行きたい」「ついに閉幕を閉じる時が来ましたね」、という長嶋語録は数知れない。
「信頼しても信用しない」。長嶋さんはこの言葉をなんの考えもなく、「カッコいい」と思ったのではないだろうか。
メイクドラマと同じである。深い考えあってのことではない。
しかし「信頼しても信用はしない」、という言葉は世の中に存在しない言葉ではないらしく、ビジネスの世界においても大切なことだとされている。
部下を信頼するがやはり最後は上司が確認すべきだ、というように使われている。
「人を信頼し信用する」場合もある。それは責任が自分に及ばないときである。
市役所の公務員などは無条件で市民を信用する。何か問題が起きれば、「信頼していたのに騙された、裏切られた。自分は悪くない」という立場をとるためである。
「信頼もしないし信用もしない」というのはイランの社会のことかもしれない。
「信頼しているが信用していない」というのが日本の社会である。何ごともあいまいであるということを表した言葉である。
「巨人軍は永久に不滅です」という長嶋さんの現役引退の言葉は、「永遠に不滅です」を言い間違えたものらしい。
いずれであっても不滅とは限りなく、ということである。
「永遠に永久です」と言ったことになるから長嶋さんはみんなに愛される。(了)
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