このブログに自分を高齢者とか年寄りとかと書いているが、実はそんな気持ちは毛頭ない。
だいいち高齢者とか年寄りとかいうものはどういうものなのか。制度として定義があるらしいが主観的には何もない。気持ちは若い時のままである
歩きにくいことはあっても全く歩けないということはない。がんを経験しているがまだ全身に転移したわけではない。まだまだ若い。
それなのに同世代の数少ない友人・知人がどんどんあの世に行ってしまう。私と歳はかわらないのに早すぎるじゃないかと言いたい。
今年1月に亡くなったと聞いた仕事仲間の友人のことは、かなりショックであった。彼の死を知ったのは5月である。
昨年の暮れに電話を入れている。自分のことはあまり口にしない思慮深い人であったが、うすうすいろんな病気を抱えていることは知っていた。
仕事のことで判らないことがあるといつも彼に電話をしていた。彼も忙しい体であるが、電話切ることもなく最後までつき合ってくれた。
いつでも話ができる友人というのはありがたい。その相手がいなくなってしまったことはやはり寂しい。
私は人を懐かしがって電話をしたりメールを入れるが、他人が私を懐かしがって電話をくれたりメールをくれることがない。
50近くになって勤め先の早期退職制度で多額の退職金を手に入れ、外国女性に貢いでしまったかつての部下を見るに見かねて私の事務所に雇用したが、3年前退職後何の連絡もない。私の病気の見舞いもない。
どうも私は人に疎んじられているらしい。ハッキリ言えば嫌われているということだろう。自分でハッキリ言うのもおかしな話である。「ハッキリ言わしてもらえば」と、他人が私に言う言葉であった。
田中角栄の言葉を借りれば、相手の自尊心を尊重していないということになるようだ。
私は人を褒めることより欠点を指摘することが多い。これがよくないことであることを最近知った。嘘でもいいから褒めるか、沈黙していればよかった。時すでに遅しである。
実は家族からも疎んじられている。子供たちを褒めて育てなかった。
子供も独立して生計が成り立てば、親などどうでもいいものである。
このことはどんなことにも言える。相手が自分にとって利益をもたらすものではないとなると、人は簡単に手の平を返す。
私と気が合うから酒の席に誘い、ニコニコとお酌までしてくれたのではないかと思っていたら、そういうことではなかったという人が何人もいた。
私は人に「仕事ができる」という印象を与えるらしい。しかし私は自分を売り込むことが嫌いだし、大きな仕事をしようなどという気はないから、最初は私にへいこらしていた人が突然居丈高になることがよくあった。
話に応じる。話題を作る。これは人間関係において大切なことだと思うが、話に応じることもなく、話題も提供しないのであれば、それは私との関係を拒否していることである。
その原因は自分にあると思わなければいけない、ということではなく、自分に原因がある。
私の話を聞いてくれた人が懐かしい。しかし私の話を聞いてくれた人から電話をもらったことはなかった。ずいぶん迷惑をかけていたのだなと思う。
このところ結婚は別として、私は人生に失敗したことを痛感している。
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