20年以上前のことになると思うが、北陸に旅行したことがある。暮れから正月にかけての旅行であった。
昔のことは時も季節も覚えていないのであるが、この季節だけはしっかりと覚えている。帰りに金沢の近江町市場で、旅行帰りの正月の膳のために蟹を買ったことと、旅館でのテレビのことからである。
部屋食が終わって仲居さんが片づけに来た時、「紅白を見ていないのですか」と不思議そうに言う。
私はN響の第九の放送を見ていた。かなり高級な旅館であったが、仲居さんは田舎のおばさんであった。
安そうな化粧品の臭いを残して、片づけ物と一緒に部屋を出ていった。
私の北陸旅行の興味は金沢ではなく、福井の北の庄にあった。賤ケ岳の戦いに敗れた柴田勝家が妻お市の方と最期を迎えた居城である。
タクシーの運転手に「北の庄に行ってください」と行き先を告げたが、分からないという。そんなまさか、福井のタクシーが北の庄を知らない。
「柴田勝家のお城ですよ」と言うと、柴田勝家を知らないと言う。
いろいろ説明をすると、お市の方らしい人の石像がある場所があると言う。じゃあそこに行ってくださいということで、何とか北の庄ゆかりの場所に着くことができた。
城があったとは思えない、なんとも陳腐なところであった。私の北陸旅行は一気に興ざめたものとなった。
先日テレビで北の庄が整備され、大きな公園になったというニュースがあった。それで勝家さんもお市さんも少しは浮かばれるだろうか。
それから何年か後、広島に旅行した。まだ牡蠣も松茸も早いということだったから季節は初秋ということになる。勿論目当ては平和記念公園と厳島神社である。
平和記念公園から広島城に向かうとき、タクシーの運転手と福井でのやり取りと同じようなことをすることになった。
もちろん運転手さんが広島城を知らないということではない。福島正則を知らないと言うのである。かつて安芸50万石の城主ではないか。広島旅行も半分近く興ざめとなってしまった。
柴田勝家も福島正則も、徳川の時代になれば忘れ去られる人物である。しかし彼らにはロマンがあった。なぜ人々はそれを語り継がなかったのであろうか。
為政者が代わったのであるから語り継ぐことができなかったということかもしれない。徳川からすれば抹殺すべき人物である。
しかし語り継がれた人がいる。真田幸村である。
信州上田には今まで何度も行ったことがある。目的は蕎麦と松茸である。
上田城はかつて真田家の居城であったが、徳川の時代には上田藩松平家の城である。幸村が豊臣方について徳川と戦い負けたからである。
それでもここは今でも真田家の城として残っている。やはり真田は人気があるのである。
観光というものはドライなもので、現在の上田城は真田のことしか展示していない。
真田の時代の上田城は、徳川によって徹底的に破壊されたらしい。
現在の上田城は徳川の時代に再建されたものである。それなのに徳川のとの字もなく、真田一色である。
タクシーの運転手は、この城は昔からある真田の城だと言う。松平など知らないと言う。
なんとなく福島正則という武将に興味があった。私の福島正則のイメージは司馬遼太郎さんの小説によるものである。
司馬遼太郎さんの小説を読むと知識が豊富になり、歴史が分かったような気になる。
秀吉子飼いの家来でありながら関ヶ原の戦いでは家康につき、大坂の陣でも参戦せず、秀吉からくれぐれも頼むとされた遺児秀頼を守ることをしなかった、とされている人物である。
司馬遼太郎さんは福島正則を評価しない。愚かな武将と司馬さんは断じている。
秀吉亡き後、豊臣の世はどうなるのか。秀吉の家来たちはいつまでも豊臣の世は続くと思っていたのか。
家康が豊臣を滅ぼすと読んだ石田三成の判断は正しい。秀吉の家来は家康打倒に向けて結束すべきであったが、天下分け目の関ヶ原の戦いで、秀吉子飼いの加藤清正も福島正則も家康方についた。
朝鮮出兵の過酷な戦いを経験せず、文治派としてぬくぬくと出世した石田三成への妬み、恨み、憎しみが判断能力を奪ってしまった、と司馬さんは言う。
三成憎しという感情が豊臣を滅ぼすことになった。物事の本質が見えていない、と批判してもそれは後世の視線である。
福島正則は関ヶ原の戦いの後、その功労により広島50万石の大名となるが、結局信州の片田舎に追いやられ、後悔のうちに生涯を閉じる。
司馬さんは福島正則に人間としての魅力を認めない。私もそう思う。愚かな男として受け止めている。
何年か前に信州小布施の岩松院を訪ねた。大大名から草深い信州の地に移された愚かな男の墓参りがしたかったのである。
石段を何段も上った先に福島正則の墓があった。今でも墓が守られているということは、正則を慕う人達がいるということであろう。
広島50万石の城主から思いもしない疑いをかけられ、信州の石高もない小大名として朽ち果てていった。この地でおのれの愚かさを悔やんだのだろうか。
この地を訪れて、初めて福島正則の哀れさに思いを寄せた。
お市の方は夫柴田勝家と死を共にする。落城は初めてのことではない。前の夫である浅井長政が兄信長に攻められ自害したとき、死を共にせず3人の娘とともに織田家に引き取られている。
賤ケ岳の戦いに勝利した秀吉は、北の庄に帰城する勝家を急追して城を包囲して、激しく攻め立てた。
落城の前夜、自決を覚悟した勝家は、お市に城外退去を勧めたが、お市はこれを拒んで共に自決すると誓う。三人の娘は道連れにするのを憐れんで秀吉のもとに届けさせた。
それから勝家とお市、一族、直臣、女中衆は、夜を徹して酒宴を催して今生の別れをした上で共に自害したという。享年37歳。北ノ庄には火が放たれて焼け落ちた。
なぜお市は秀吉を頼って生きる道を選ばなかったのか。信長は前年本能寺で亡くなっているが、秀吉はその時はまだ信長を超えた存在にはなってはいない。
ある女流作家が、「お市は初めて男の魅力というものを、武骨な勝家に見たのではないでしょうか」と述べている。
私の北陸旅行はこの言葉に魅かれたものである。(了)
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